海部氏勘注系図の解説10 応神天皇の世代。息長真若中比売と二人のカグロヒメ。


 開化天皇朝と垂仁天皇朝が『海部氏勘注系図』の十二世孫世代で重なり二朝並立していましたが、開化天皇朝側は十三世孫の崇神天皇こと五十瓊敷入彦命で敗れ、十三世孫の日子坐王の子の丹波道主命こと川上眞稚命が跡を継いでいるようでした。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命、珍彦)

建飯片隅命(十二世孫: 建飯賀田須命、倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)

垂仁天皇(十二世孫)―景行天皇(十三世孫: 磐衝別命)―成務天皇(十四世孫: 五十日帯彦命、神櫛別命)

 一方の「天日槍命の王朝」側は、垂仁、景行、成務天皇と続きこれは五十日帯彦命でした。「記紀」の皇統譜では開化、崇神、垂仁、景行、成務天皇と続きます。二朝並立と皇統譜を並べると下記になります。

【皇統譜】
開化(十二世孫)―崇神(十三世孫)―垂仁(十四世孫)―景行(十五世孫)

【二朝並立譜】
垂仁(十二世孫)―景行(十三世孫)―成務(十四世孫)―仲哀(十五世孫)

 十二世孫の建飯片隅命は建甕槌神であり倭建命の一人と捉えられるのは説明済みです。『古事記』には、景行天皇の妃がその子、倭建命の曾孫だという「謎の系譜」が載ります。この矛盾の解はもうお気づきかと思いますが、説明します。

 「記紀」が述べるところでは景行天皇の子が倭建命ですが、これは普通名詞でそれぞれが異なる倭建命であり、景行天皇が娶った倭建命の曾孫とは十二世孫の倭建命こと建飯片隅命の曾孫となります。十二世孫世代の曾孫世代は、上の【皇統譜】世代で十五世孫世代で景行天皇朝に当たりますので矛盾が有りません。

 この倭建命の曾孫で景行天皇の妃は訶具漏比売(かぐろひめ)といいます。訶具漏比売までの系譜は倭建命、若建王(わかたけのみこ)、須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)と続きます。

倭建命―若建王―須売伊呂大中日子王―訶具漏比売(十五世孫)
                                                           ||
                                                           景行天皇(十五世孫)

 『古事記』には景行天皇妃の他にもう一人の迦具漏比売(かぐろひめ)を載せます。こちらの「迦」具漏比売は応神天皇の妃として挙げられます。その娘が忍坂大中比売といい、その姉妹に登冨志郎女(とおし/とほしのいらつめ)がいます。「カグロヒメ」は景行天皇妃であり、応神天皇妃であるとなります。

迦具漏比売
  ||
応神天皇 ―忍坂大中比売
      登冨志郎女

 振り返りですが十二世孫の建飯片隅命(たけいいかたすのみこと)こと倭建命を祖とする一族に息長田別王(おきながたわけのみこ)がいました。『古事記』はこの王の系譜を載せ、それによると王の子は杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)、その娘が息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)となり、この息長真若中比売は応神天皇の妃でしたので、応神天皇世代は十五世孫となり、訶具漏比売の配偶者の景行天皇世代と重なります。

 応神天皇と息長真若中比売の子が若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)となります。この一風変わった名前の「ワカヌケ」王の娘には、先ほどの迦具漏比売の娘と同一の姫の忍坂之大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)がいます。その妹の藤原之琴節郎女は、その美しさが衣を通して輝くほど美しい比喩の衣通姫(通郎女)ですが、こちらも登冨志郎女と対応しています。この二点から息長真若中比売と迦具漏比売は、一代の相違が有りますが系譜は、ほぼ同一人物を表していると思われます。

倭建命(十二世孫: 建飯片隅命、建甕槌神)―息長田別王(十三世孫)―杙俣長日子王(十四世孫)―息長真若中比売(十五世孫、応神天皇妃)―若野毛二俣王(十六世孫)―忍坂之大中津比売命(十七世孫: 衣通姫=通郎女)

倭建命(十二世孫)―若建王(十三世孫)―須売伊呂大中日子王(十四世孫)―訶具漏比売(十五世孫:景行天皇妃)―迦具漏比売(十六世孫:応神天皇妃)―忍坂大中比売(十七世孫: 登冨志郎女)

 このように並べると倭建命から始まる二つの系図は非常に類似しているのが分かります。それは十二世孫の倭建命は同一であり、十四世孫も杙俣長日子王と須売伊呂大中日子王須の「ナカヒコ、ナガヒコ」が、十七世孫は「オシサカノオオナカツヒメ」、「トオシノイラツメ」が対応していますので二つの倭建命を祖とする系譜は同一と思われます。

 十五世孫の訶具漏比売と十六世孫の迦具漏比売に一代の相違が有るのは、十六世孫の若野毛二俣王は、『古事記』によると母の弟(妹)の百師木伊呂弁(ももしきいろべ)と婚姻したといい、これと対応しているからです。息長田別王、杙俣長日子王の一族を記した『北島家文書』では百師木伊呂弁の父という杙俣長日子王は百十八歳まで存命だったとあります。普通に考えるとこれは疑わしいことから、息長真若中比売の妹という百師木伊呂弁は杙俣長日子王の子の娘ではと思われます。また同文書は息長杙俣王(杙俣長日子王)家は若野毛二俣王が百師木伊呂弁を娶り入婿として継いだと伝えます。

倭建命(十二世孫)―息長田別王(十三世孫)―杙俣長日子王1(十四世孫)―杙俣長日子王2(十五世孫)―百師木伊呂弁(十六世孫)―忍坂之大中津比売命(十七世孫: 衣通姫=通郎女)

 応神天皇と息長真若中比売の子が、若野毛二俣王でした。この王と音通する人物に『古事記』が伝える若帯日子天皇(成務天皇)の皇子の和訶奴気王(わかぬけのみこ)がいます。「ワカヌケ」と非常にユニークな名前は「記紀」では他で現れませんので、二人は同一人物と思われます。先ほどの十六世孫の迦具漏比売は応神天皇妃で若野毛二俣王の配偶者とでしたが、『古事記』の伝えでは成務天皇の子の和訶奴気王は応神天皇世代ですので世代が揃います。

成務天皇―和訶奴気王、若野毛二俣王(応神天皇世代)
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     迦具漏比売(十六世孫:応神天皇妃)

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“海部氏勘注系図の解説10 応神天皇の世代。息長真若中比売と二人のカグロヒメ。” への2件のフィードバック

  1. […]  川上眞稚命は丹波道主命であるのは検討済みです。品陀真若王の三人の娘は応神天皇妃でしたが、丹波道主命の娘も同様に応神天皇妃であり、景行天皇妃であるのも見て来ました。 丹波道主命の本貫地の丹後国熊野郡の久美浜には品田(ほんで)(京丹後市久美浜町品田)の地名が今も残ります。川上眞稚命と品陀真若王(川上眞稚命)は同一人物ですので、その相関性は疑いようがないでしょう。 […]

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