『伍蔵社伝記』解題
『伍蔵社伝記』は、京都府舞鶴市の岩室稲荷神社に伝わる社伝です。本稿では、現地で撮影した複数の写真を照合して復元した原文と、その訓読文・現代語訳を掲載します。本伝記の内容と歴史的背景について詳しく考察しました。
『伍蔵社伝記』原文
往古天火明命豊宇氣大神降臨當國、五穀蠶桑種始悉、水陸水田植則賴足也。故謂田庭、今國名爲丹波之縁也。
豊宇氣命求肥饒池、播殖五穀、其恩賴受、好所生故謂宇氣己保利、今郡名爲笠郡之縁也。
大國魂神與久斯神、勢力一致、經營當〔國畢カ〕、更參到于高志之國之時、當田國與丹波國堺、高岳謂青葉山。故臨覧妖氣在領、天火照命授矛曰、誅伏諸鬼神、可鎭知此國。大神勅隨國中平定、故勅受郷、謂領知郷。今郷名爲志樂郷之也。
大穴持命與少彦名神巡行此國畢、參到于高志國之時、勅曰、天火明命者、當國吾地參而治焉。又當田國與丹波國、天津磐境起樹神籬矣。即以美保伎玉、御祈鈴、久斯器、御神幣、療病金圍、五種寶、永爲療病禳災國治神璽。故、岩藏安神噐。
一藏安美伎玉
二藏安御神幣
三藏安久斯噐
四藏安御祈鈴
五藏安療病金圍
故謂伍藏、今社名[爲] [伍]藏社之縁也。
豊宇氣神降臨當國、〔於〕沃壤地、統率〔其〕田勞〔王〕、播殖五穀。田勞王秋、垂頴、〔彌〕握足祈禱。故請田勞、令〔其〕人爲太郎也。田勞、一訓太郎。故今世謬謂太郎之縁也。
天火照命勅隨壤妖氣來而伐陸耳。陸耳遁隱岩藏、乞命。天火明命、陸耳赦出時、歌曰。
陸耳人、岩渡置立〔梓〕弓檀弓、將射發心。雖思、本方君子思、末方吾物思、苛痛。其思出、悲痛。此思出、不射、放歸。〔梓〕弓檀弓。
當御間城入彦五十瓊殖天皇御代丹波道主命將兵巡按當國畢參到伍藏社之時巖石光耀如燃故歌曰
此岩者哉稱榮大高奇岩也綾岩也哉
社人田勞王答歌
天津神日御蔭岩之方月御蔭岩綾御岩竒岩也朝日峯蔭夕日峯蔭神代天津火照神愛汝親々[總]世愛又天皇命御子愛今現見如巡〔日〕〔千〕余彌榮弥竒雨漏幾丈有哉否知竒岩也
恐多幸蒙[伍]藏社傳記召問故錄傳説一[巻]謹以獻上
天智 [十]年 [辛]未年正月□日
丹波国笠郡志楽郷 田勞[王]
永仁二甲午年三月□日
太郎再写
『伍蔵社伝記』訓読文
往古、天火明命・豊宇気大神、当国に降臨し、五穀・蚕桑の種を始め、ことごとく水陸の田に植うれば、すなわち頼り足るなり。故に田庭と謂う。今、国の名を丹波と為す縁なり。
豊宇気命、肥饒の池を求め、五穀を播き殖やす。その恩を頼り受け、好く生ずる所なるが故に、宇気己保利と謂う。今、郡の名を笠郡と為す縁なり。
大国魂神と久斯神、勢力を一にし、当〔国を経営し畢えてか〕、さらに高志の国に参り到る時、当田国と丹波国との堺に高岳あり、青葉山と謂う。故に臨み覧れば、妖気、領内に在り。〔大神は〕天火照命に矛を授けて曰く、
「諸々の鬼神を誅伏し、この国を鎮知すべし」
と。
天火照命、大神の勅に随い、国中を平定す。故に郷を受けよと勅し、領知郷と謂う。今、郷の名を志楽郷と為す縁なり。
大穴持命と少彦名神、この国を巡行し畢え、高志国に参り到る時、勅して曰く、
「天火明命は、当国の吾が地に参りて治めよ。また、当田国と丹波国とに天津磐境を起こし、神籬を樹てよ」
と。
すなわち、美保伎玉・御祈鈴・久斯器・御神幣・療病金囲の五種の宝をもって、永く病を療し、災いを禳い、国を治むる神璽と為す。故に岩蔵に神器を安置す。
一の蔵には美伎玉を安置す。
二の蔵には御神幣を安置す。
三の蔵には久斯器を安置す。
四の蔵には御祈鈴を安置す。
五の蔵には療病金囲を安置す。
故に伍蔵と謂い、今、社の名を〔伍〕蔵社と為す縁なり。
豊宇気神、当国に降臨し、〔沃壌の地に於いて〕、〔その〕田労〔王〕を統率し、五穀を播き殖やす。
田労王、秋、穎を垂れ、〔弥〕握り足らんことを祈祷す。故に田労を請い、〔その〕人をして太郎と為さしむるなり。田労は、一に太郎と訓ず。故に今の世、謬りて太郎と謂う縁なり。
天火照命、勅に随い、壌の妖気来たるによりて陸耳を伐つ。陸耳、岩蔵に遁れ隠れて命を乞う。天火明命、陸耳を赦して出だす時、歌いて曰く。
陸耳人、岩渡に置き立つる〔梓〕弓、檀弓。将に射んとして心を発す。思うと雖も、本方には君子を思い、末方には吾が物思いの苛痛を思う。その思い出でて、悲痛す。この思い出でて、射ずして放ち帰す。〔梓〕弓、檀弓。
御間城入彦五十瓊殖天皇の御代に当たり、丹波道主命、兵を率いて当国を巡按し畢え、伍蔵社に参り到る時、巌石、光り耀き、燃ゆるが如し。故に歌いて曰く。
この岩はや、称え栄ゆる、大いに高き奇岩なり。綾岩なるかな。
社人の田労王、答えて歌う。
天津神、日の御蔭岩の方、月の御蔭岩、綾御岩、奇岩なり。朝日は峰に蔭し、夕日は峰に蔭す。神代、天津火照神、汝を愛す。親々〔総〕世を愛し、また天皇命の御子も愛す。今、現に見るが如し。日を巡ること千余、弥栄え、弥奇し。雨漏るること幾丈有るや。否、知らず。奇岩なり。
恐れ多くも、幸いに〔伍〕蔵社伝記を召し問わるるを蒙る。故に伝説一〔巻〕を録し、謹みて献上す。
天智十年辛未年正月□日
丹波国笠郡志楽郷
田労〔王〕
永仁二年甲午年三月□日
太郎、再写す。
『伍蔵社伝記』現代語訳
昔、天火明命と豊宇気大神がこの国に降臨し、五穀の栽培と養蚕のもととなる桑の植栽を始めました。それらを水田や陸田に植えたところ、人々が暮らしていくのに十分な実りが得られるようになりました。
そのため、この土地を「田庭」と呼び、これが現在の国名である「丹波」の由来になったといいます。
豊宇気命は、肥沃で豊かな池ないし水辺を求め、そこに五穀を播いて育てました。その恵みによって作物がよく育つ土地となったため、「宇気己保利」と呼ばれるようになりました。これが現在の笠郡という郡名の由来であるとされています。
大国魂神と久斯神は力を合わせて、この国の開拓と統治に当たりました。その事業を終えた後、さらに高志国へ向かった時、当田国と丹波国との境に高い山があり、それを青葉山と呼びました。
そこを見渡すと、領内に妖気が満ちていました。そこで大神は天火照命に矛を授け、
「この地にいる鬼神たちを討ち従え、この国を鎮め治めよ」
と命じました。
天火照命は大神の命令に従って国中を平定しました。そのことから、この土地を領知郷と呼ぶようになり、現在の志楽郷という郷名が生まれたといいます。
大穴持命と少彦名神がこの国を巡り終え、高志国へ向かった時、天火明命に命じました。
「この国にある我々の土地へ赴き、これを治めよ。また、当田国と丹波国に天津磐境を設け、神を迎える神籬を立てよ」
という命令でした。
そこで、美保伎玉・御祈鈴・久斯器・御神幣・療病金囲という五種類の神宝が用意されました。
これらの神宝は、病気を治し、災いを祓い、国を治めるための神聖な印とされ、五つの岩蔵に安置されました。
第一の蔵には美伎玉、第二の蔵には御神幣、第三の蔵には久斯器、第四の蔵には御祈鈴、第五の蔵には療病金囲が納められました。
五つの蔵に神宝を安置したため、この場所を「伍蔵」と呼び、神社の名を「伍蔵社」としたのだといいます。
豊宇気神はこの国に降臨し、肥沃な土地において、田を耕す人々、あるいは田労王と呼ばれる人物を率いて、五穀を播き育てました。
田労王は、秋になって穀物の穂が垂れると、手に取るに足るほど十分な実りが得られるよう祈りました。
そこで田を耕す者を召し、その人を「太郎」と呼ぶことにしました。「田労」は、別の読み方では「たろう」と読みます。このため、本来は「田労」であったものを、後世の人々が誤って「太郎」と表記するようになった、その由来であると説明しています。
天火照命は神の命令に従い、この土地に現れた妖気を鎮めるため、陸耳を討とうとしました。
陸耳は岩蔵の中へ逃げ隠れ、命を助けてほしいと願いました。天火明命が陸耳を赦し、岩蔵から外へ出した時、次の歌を詠みました。
「陸耳よ。岩渡に置き立てた梓弓と檀弓を手にし、今にもお前を射ようと決心した。しかし、弓の本の方では君子のことを思い、末の方では自分自身の苦しい物思いを思い出した。その思いが込み上げ、悲しく胸が痛んだ。この思いのためにお前を射ることができず、解き放って帰すことにした。梓弓よ、檀弓よ」
御間城入彦五十瓊殖天皇の御代、丹波道主命は兵を率いてこの国を巡察しました。
巡察を終えて伍蔵社に参詣した時、岩石が燃えているかのように光り輝きました。そこで丹波道主命は、次のように歌いました。
「この岩は、何と称えられるべき栄えある岩であろう。高くそびえる不思議な岩であり、美しく綾なす岩である」
これに対し、神社に仕えていた田労王が歌を返しました。
「天津神にゆかりのある、日の御蔭岩よ。月の御蔭岩よ。美しく綾なす御岩であり、不思議な岩である。朝日は峰に影を落とし、夕日も峰に影を落とす。神代には天津火照神が汝を愛した。代々の人々も汝を愛し、天皇の御子もまた汝を愛した。そのことは、今まさに目の前に見るとおりである。千日余りが巡っても、ますます栄え、ますます不思議な岩となる。雨水が流れ落ちる高さは幾丈あるのか、それすら知ることができない。まことに不思議な岩である」
最後には、恐れ多くも伍蔵社の伝記について尋ねられたため、伝説一巻を書き記し、謹んで献上したとあります。
奥書によれば、天智十年辛未年、すなわち西暦六七一年の正月に記され、丹波国笠郡志楽郷の田労王の名が記されています。
さらに、永仁二年甲午年、すなわち西暦一二九四年三月に、「太郎」と記された人物によって再び書き写されたとされています。
本文をお読みになる際の注意
本稿に掲げた『伍蔵社伝記』の翻刻・訓読文・現代語訳は、現地に展示されている文書を撮影した複数の写真を照合し、判読可能な範囲で復元したものです。写真には反射、紙面の変色、文字のかすれや欠損があるため、すべての文字を確定できたわけではありません。
本文中の〔 〕は、残存する字形や前後の文意から推定して補った文字を示し、□は現時点で判読できない文字を示します。また、句読点は原文にはないため、内容を理解しやすくする目的で編者が補いました。目視によって確認できる文字については、文意が取りにくい場合でも原則として原字を尊重し、意味を通すために安易に別字へ改めない方針を採っています。
とりわけ、「田勞王秋、垂頴、〔彌〕握足祈禱」の一節、「陸耳人」から始まる歌謡、ならびに「天津神日御蔭岩」から始まる答歌には、古い語法、特殊な表記、伝写の過程で生じたと考えられる文字の乱れが含まれており、訓読および現代語訳は暫定的な解釈です。したがって、現代語訳は原文の意味を一つに確定するものではなく、現段階で最も文脈に適うと思われる読みを示したものとしてご覧ください。
末尾の「天智十年辛未年」「永仁二年甲午年再写」「丹波国笠郡志楽郷」などの記載については、本文の写真だけでなく、現地に掲示されていた別紙「当地古代の伍蔵社伝記写し」の説明によって復元・補記しています。このため、これらの文字は本文そのものから完全に判読したものではありません。
また、奥書に天智十年(六七一年)および永仁二年(一二九四年)の年紀が記されているとしても、現在展示されている文書そのものが、その時代に作成された現物であることを意味するものではありません。本文が伝える成立年・再写年と、現存する写本の物理的な書写年代とは区別して考える必要があります。本稿は、本文に記された伝承内容と伝写の痕跡を紹介することを目的とするものであり、文書の成立年代や史実性を確定するものではありません。









