海部氏勘注系図の解説9 成務天皇の世代。五十日帯彦命と神櫛別命。


 垂仁天皇と綺戸辺(かにはたとべ)(真砥野媛)の子が磐衝別命(いわつくわけのみこと)で、その姉妹という苅幡戸辺(かりはたとべ)の子の五十日帯彦命(いかたらしひこのみこと)は「記紀」によると兄弟となります。先述通り五十日帯彦命は『新撰姓氏録』では景行天皇の子と伝わっていました。こちらを取ると五十日帯彦命は成務天皇世代となりますが、これを伝える伝承があります。

 五十日帯彦命は一般的には全く知られていない人物ですが、この命の名前は王者の後継者に相応しい名詞で構成されております。
 接頭する「五十日」は、石上神宮で国家と物部氏の祭祀を司った伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、伊香色雄命(いかがしこお)が同様に「イカ」が接頭するのを見ても大変大きな意味を持った名称です。次の「帯」は垂仁天皇、景行天皇の和風諡号「大帯日子淤斯呂和氣天皇」に内包されることから「天日槍命の王朝」の象徴です。「彦」は日子と書けますが、日の御子と天照大神の子孫を意味し、その名は各王家の統合とも捉えられます。これを考えると最後の尊称は、「命」ではなく、何故に「尊」ではないのかと首を傾げたくなる名前です。

 その名前からは天皇として即位していたに相応しい五十日帯彦命は『丹後旧事記』では、五十日足彦尊を天皇に使う尊称の尊で呼び、「成務天皇の別名である」と伝えます。この伝承と『新撰姓氏録』の景行天皇の子をとるのなら、五十日帯彦命は成務天皇の一人となります。

垂仁天皇(十二世孫)―景行天皇(十三世孫)―成務天皇(十四世孫)
垂仁天皇(十二世孫)―磐衝別命(十三世孫)―五十日帯彦命(十四世孫)

 磐衝別命=神櫛別命=五十香彦命でしたが、上記検討からこうように置くと、どうやら磐衝別命と五十日帯彦命は同一人物ではなく、一代異なる人物だと見えてきます。

 『新撰姓氏録』で同一人物だというもう一人の人物、神櫛別命(かみくしわけのみこと)はどうでしょうか。景行天皇の子の中で「神櫛」の名を持つのが、景行天皇の皇后の播磨稲日大郎姫との間の皇子の神櫛王です。『古事記』によると神櫛王は木国の酒部阿比古(さかべのあひこ)、宇陀の酒部の祖と伝わります。『新撰姓氏録』によると神櫛別命も同様に酒部の祖と伝わります。

「右京皇別、酒部公、同皇子(※大足彦忍代別天皇皇子五十香彦命、亦名神櫛別命之後)三世孫足彦大兄王之後也」

 『古事記』と『新撰姓氏録』に挙がる二つの酒部の祖を比べると神櫛王と神櫛別命の間には「別」が入っている事に気付きます。二人は別人で神櫛別命は神櫛皇子から「別」れたと置くと自然に納まります。

神櫛皇子―神櫛別命―酒部

 『古事記』では神櫛王は播磨稲日大郎姫の皇子でしたが、『日本書紀』は五十河媛(いかわひめ)の子で、稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の兄弟と伝えます。

 神櫛皇子の「櫛」ですがこれは大変大きな示唆を含んだ語です。櫛には霊力が宿ると言われます。これに「神」が付与さると連想されるのが櫛笥(くしげ)に入る神、三輪山の大物主神です。大物主神は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命との聖婚伝説を残し、吉備津彦命や伊予皇子こと彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)の兄弟でも有りました。この連想から、神櫛皇子の「櫛」とは三輪の神の暗号ではと思われます。

 神櫛皇子の兄弟の稲背入彦命は結論から記せば景行天皇の子ではないとなります。父と言う景行天皇は合わせて八十人の子(王)の親と『古事記』は伝えます。これは要するに、別家系の王子も景行天皇の子になっている証でしょう。景行天皇の子とは、なかなか問題がある伝承となりますので、ここでは取り敢えずは父は考慮せずに進めます。

 稲背入彦命は播磨別の始祖と伝わります。稲背入彦命の子の御諸別命が稚足彦天皇の御代に針間別を給わり、そこから播磨別が始まったと『新撰姓氏録』に載ります(右京皇別、佐伯直)。また『先代旧事本紀』には針間国造(はりまのくにのみやつこ)は成務朝の御世に、稲背入彦命の孫の伊許自別命(いこじわけのみこと)を国造に定められたとも記されます。

 この播磨国に根を張っている稲背入彦命の子の御諸別命(みもろわけのみこと)ですが『新撰姓氏録』には豊城入彦命の後裔として幾つかの氏族が挙がります。

和泉国皇別 珍県主 佐代公同祖   豊城入彦命三世孫御諸別命之後也
和泉国皇別 葛原部 佐代公同祖   豊城入彦命三世孫大御諸別命之後也
摂津国皇別 韓矢田部造 上毛野朝臣同祖  豊城入彦命之後也 三世孫弥母里別命孫現古君。

 御諸別命は豊城入彦命三世孫と『新撰姓氏録』は伝えますが、これは『日本書紀』に倣った物でしょう。その『日本書紀』によると御諸別王の父は彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)だと記し、彦狭嶋王は豊城入彦命の孫だとも伝えます。この彦狭嶋王と類似する皇子に倭迹迹日百襲姫命の兄弟の伊予皇子こと彦狭嶋命がいました。この「彦狭嶋」は複数世代で現れることから、個人名ではなく伊予皇子の称号であると思われるのは拙著で記しました。また「彦狭嶋」はその字「狭い嶋」から、伊弉諾、伊奘冉尊の国産み神話の「吉備の児島」(小さい島)に通じ、吉備津彦命を暗示させる物ともいえました。

 つまり彦狭嶋王は孝霊天皇の血を引き継ぎ、伊予皇子(四国王)を襲名している人物で、吉備津彦命と通じ瀬戸内王の響きを持ちます。御諸別王は播磨別の祖ですが四国対岸の播磨を名前に含む「播磨」稲日大郎姫の父が若建「吉備」津日子で有るのも、この蓋然性を高めます。これらを考慮すると御諸別王の父は稲背入彦命であり、「彦狭嶋」を名乗っていた人物と言えそうです。

 宇佐家古伝では御諸別命の父は神武天皇だと伝わることから、その父の稲背入彦命は十三世孫の人物に当たることは見て来ました。景行天皇は十三世孫ですので、稲背入彦命の父は景行天皇ではないとなります。稲背入彦命が彦狭嶋王(吉備の児島)や、播磨別の祖の瀬戸内王であると考えると、稲背入彦命の父は吉備津彦命の一人がその該当者であり、その襲名者が稲背入彦命と推測出来ます。

 稲背入彦命の兄弟の神櫛皇子は、「櫛」が暗示になっていました。この「櫛」は三輪山神の象徴と思われ、「櫛」を大切にする性別を素直に考えれば、それは女性で皇女と考えるのが自然でしょう。この推敲を系譜に並べると面白いことが見えて来ます。

吉備津彦命(十二世孫)―稲背入彦命(十三世孫、吉備津彦命、彦狭嶋王)
            神櫛皇子(女性)
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垂仁天皇(十二世孫) ―景行天皇(十三世孫)―成務天皇(十四世孫)

 神櫛皇子を女性と置き、景行天皇の妻とするこの構図は、景行天皇の皇后の播磨稲日大郎姫と重なるのに気づきます。「播磨」稲日大郎姫の父は若建吉備津日子(わかたけきびつひこのみこと)であるのも、稲背入彦命のキーワード、「播磨」、「吉備」と重なります。

 景行天皇と播磨稲日大郎姫の皇子の神櫛王は『新撰姓氏録』では神櫛別命でした。播磨稲日大郎姫が神櫛皇子となると、その子は神櫛から「別」た命となります。その世代は十四世孫となり、同一人物と伝わる五十日帯彦命と重なります。神櫛皇子、五十日帯彦命と続く系譜は後裔氏族の「本木・元木氏の系譜」でもそれは確認が取れます。

吉備津彦命(十二世孫)―稲背入彦命(十三世孫、吉備津彦命、彦狭嶋王)
            播磨稲日大郎姫(神櫛皇子)
             ||
垂仁天皇(十二世孫) ―景行天皇(十三世孫)―成務天皇(十四世孫: 五十日帯彦命、神櫛別命)

 稲背入彦命(稲瀬毗古王)は垂仁天皇の娘の阿耶美都比売命の夫ですので、二代に渡り「天日槍命の王朝」と婚姻しています。『新撰姓氏録』によれば、開化天皇朝の王子の沙穂彦王(さほひこのみこ)と戦った八綱田命(やつなたのみこと)は豊城入彦命の子となります。

豊城入彦命―八綱田命―彦狭嶋王(稲背入彦命)―御諸別命
※豊城入彦命の子に八綱田命を入れるのは『新撰姓氏録』に従います。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命、珍彦)

 『日本書紀』によれば八綱田命は垂仁天皇に加担をして沙穂彦王と戦っていますが、どうやら早くから稲背入彦命の一族と垂仁天皇側は手を結んでいたようです。

 十二世孫の開化天皇に続く十三世孫の崇神天皇こと五十瓊敷入彦命は岐阜県の伊奈波神社の伝承によれば、朝廷の命により陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされてその地で討たれたといいます。
 宇佐家伝承では御諸別王の父の神武天皇(稲背入彦命)は同世代の十三世孫で並びます。東征の際に豊国に入ったことを考慮すれば、「豊国に入った命」豊城入彦命とは稲背入彦命もその該当者になります。その子の御諸別王は東国を平定した将軍であることを鑑みると、伊奈波神社の五十瓊敷入彦命を討った陸奥守豊益とは、この一族を仮託した者と思われます。

 稲背入彦命はその名に背くの「背」が内包されます。これは開化天皇朝から見れば「背」いたとなる隠語ではないでしょか。またこの「稲背」を名前を持つ人物は神話の世界で出雲を討った稲背脛であるのは、同様の一族を暗示している物と思われます。

 『上宮記逸文』の凡牟都和希王(応神天皇)は十五世孫世代でした。八綱田命は誉津別命(ほむつわけのみこと)の親と戦っていることから、十四世孫世代となります。『新撰姓氏録』が伝える八綱田命は豊城入彦命の子の世代は「豊国に入った命」豊城入彦命こと稲背入彦命を基準点にするのが妥当となるのでしょう。

稲背入彦命(十三世孫:豊城入彦命)―八綱田命(十四世孫)

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