天孫降臨(日向三代)と天津神、国津神


 天孫降臨とは天照大神の孫の瓊瓊杵尊が天上から地上に降臨する故に着いている名称です。これを命じているのは高皇産霊尊や天照大神となります。「勘注系図の解説」で説明しましたが天忍穂耳尊は「勘注系図」で言うところの九世孫の世代当たる出来事となります(孝霊天皇の子世代)。

 『神武天皇と卑弥呼の時代』でも説明しましたが、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊と続く所謂神代と称される「日向三代」の時代は、大凡九、十、十一世孫の世代が該当します。これらを皇統譜に重ねると綏靖、安寧、懿徳天皇の時代になり、これは所謂「欠史八代」の世代になります。
 「欠史八代」は「記紀」でそれら天皇の事績が欠如している故にそう言われますが、実はその事績は「神代」の時代に振り分けられています。「神代」の時代にはその他に、「孝」が接頭する天皇の事績を投影した大己貴命(大国主神)が描かれています。つまり、「記紀」の構造は人皇(歴史の部)を神代の神話として記しているとなります。
 旧宇佐神宮宮司家の宇佐公康氏は綏靖、安寧、懿徳天皇は物部氏の首長といいます。物部氏の開祖は饒速日尊ですが、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊の各地伝承がそれに重なるのはそのためです。

【神話】
瓊瓊杵尊(九世孫)―彦火火出見尊(十世孫)―鸕鷀草葺不合尊(十一世孫)
【皇統譜】
綏靖天皇(九世孫)―安寧天皇(十世孫)  ―懿徳天皇(十一世孫)

 天孫は「日向」に降臨したと国史は記し、神話では天と地の上下でこれは表されます。これを実際の事柄(歴史の部)に入れ替えると、東(近畿、瀬戸内)と西(九州)となります。この年代は二から三百年代が該当すると思われます。

 「欠史八代」の次の崇神天皇紀にはようやく事績が記され「欠史」が明けます。この天皇紀には例えば孝霊天皇の娘の倭迹々日百襲姫命が記されるなど、大凡孝霊天皇以後から崇神天皇までの間の事柄が記されます。実際は小止与姫を娶ったと思われる懿徳天皇(鸕鷀草葺不合尊)が崇神天皇と伝わるのは綏靖、安寧、懿徳天皇やそれに続く開化、崇神天皇が纏めて崇神天皇紀に記されるためでしょう。神社の創建の由来の「崇神天皇何年」などもこれら時代を当てはめたと思われる物が散見されます。

綏靖、安寧、懿徳、開化、崇神天皇(崇神天皇の時代)

 「国津神」という神の括りが有ります。直ぐに頭に浮かぶのは天孫降臨した一族に「国譲り」をしたという神々でしょうか。これを辞書で調べると意外と明白では有りません。

高天原の神々に対してこの地上に出現した神々,ならびに天津神の後裔で,地上に土着して活躍する神々,また,国土の各地方の有力な神々をいう。(世界大百科事典)

 また『令義解』(りょうのぎげ)の解釈では「天神トハ伊勢、山代ノ鴨、住吉、出雲国造ノ斎ク神等コレナリ。地祇トハ大神、大倭、葛木ノ鴨、 出雲ノ大汝神等コレナリ」と有りますが、結局のところこれは時系列の違いと思われます。
 一般的に「国津神」を代表する神と言えば、『令義解』にもある大国主神(出雲ノ大汝神)でしょう。大国主神は天孫の一族に「国譲り」をしますが、大国主神もまた天照大神の子孫の天神であるのは再三記して来た次第です。要するに、天孫が天降る前の世代の人物が国津神の大国主神となっています。
 この大国主神の子には事代主神がいます。『伊水温故』(いすいうんご)によると、事代主命は天神と記す時は國常立尊だとあります。神々を簡潔に纏めるを許されるなら、天神という大枠に国津神、天津神が有りそれは天孫降臨前、後で分けられるとなるとなります。

イメージ図を起こすと下記になります。

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