垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)は天日槍命1


 垂仁天皇の後から天皇を挙げると、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇ですが、それぞれ和風諡号は、大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)(『古事記』)と、全て諡号に「垂」が内包されています。この「垂」は垂迹などに使われまる漢字ですが、天界の様な世界から「現世」降って来た意味と捉えられます。つまり何処からか「垂」の一族が降臨して来たと伝える暗号となります。

 垂らしを内包する一連の天皇の初代に位置付けられる垂仁天皇紀を開くと、その出自と即位の記事の直ぐ後から始まるのが、朝鮮半島南部の任那(みまな)からやって来たという、任那王の蘇那曷叱智(そなかしち)の帰国です。

 蘇那曷叱智は先代の崇神天皇時代に来日して、帰国する際に垂仁天皇より赤絹を賜ったと記されただけで彼の記載は終わります。その直後にに述べられるのが、これまた崇神天皇の御代に来日して垂仁天皇から赤絹を賜った都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)となりますから、要するに二人は同じ人物か一族と伝えているようです。

 都怒我阿羅斯等は朝鮮半島南部の意富加羅国(おおからこく)の王子で、またの名を于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)といい、越前国一宮の気比神宮(けひじんぐう)が鎮座する福井県敦賀市の地名の角鹿は、都怒我阿羅斯等が越国の笥飯浦に碇泊した故事がその地名の由来と『日本書紀』は記します。帰国の際に都怒我阿羅斯等は垂仁天皇より彼の本国である意富加羅国を弥摩那国(みまなのくに)にあらためる様に申し付けられます。これらの内容を纏めると以下になります。

【本国】【贈物】【来日】 
任那赤絹崇神天皇時代蘇那曷叱智
弥摩那赤絹崇神天皇時代都怒我阿羅斯等

 一目瞭然ですが『日本書紀』は蘇那曷叱智と都怒我阿羅斯等を同一人物と想定して描いているのが分かります。結論から言うと、天皇紀はその天皇の事績を記しますが、垂仁天皇紀は渡来人から始まり渡来人で終わりますが、これは垂仁天皇本人の事績となります。要するに垂仁天皇の降臨は「ミマナ」からであり、それは都怒我阿羅斯等だと言うことです。今のところは垂仁天皇は「ミマナ」から来た人物では、と言う推論として話を進めましょう。

 都怒我阿羅斯等は帰国後に「白い石」を得ますが、その「白い石」を自宅の寝室に置いておくと、石は「美しい乙女」になったといいます。都怒我阿羅斯等は乙女と結ばれようとしますが彼が出かけている間に、この「美しい乙女」はいなくなってしまいます。追いかけて行き尋ねたところ乙女は、日本国に行っており難波(現在の大阪府)で、比売語曽社(ひめこそしゃ)の神となったか或いは、豊国(とよのくに)の国前郡(くにさきぐん)(大分県の国東半島)の比売語曽社の神となったといい『日本書紀』は、都怒我阿羅斯等の物語を閉じます。

 都怒我阿羅斯等に続けて新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)の来日へと『日本書紀』の記事は推移します。天日槍の来日後に但馬国(兵庫県豊岡市)に留まったことを記す『日本書紀』ですが、来日の由来を『日本書紀』は語りません。それは『古事記』に記されており、天日槍命は母国にいる時に「赤い玉」を手に入れ自宅の床に置くと、「赤い玉」は「美しい乙女」に変わり、その「美しい乙女」と結婚します。結婚後、「美しい乙女」は天日槍命に尽くしますが、慢心した天日槍命は妻を罵ります。怒った妻は自分の祖国に帰ると言い放ち出て行き、その妻が向かった祖国とは難波(大阪府)でした。続けて妻は比売碁曽神社(ひめごそじんじゃ)の阿加流比売(あかるひめ)になったとも記されます。その後に天日槍命は妻を追って来日しますが、難波の渡り神が遮ったために、その地には入れず但馬に留まったと語りその由来を締めます。

 先程の都怒我阿羅斯等は任那へ帰国後に「白い石」から生まれて「美しい乙女」になった、比売語曽社の女神を追って再来日しています。その後に『日本書紀』垂仁天皇紀が記す、天日槍命は「赤い玉」から生まれ、「美しい乙女」になった比売碁曽神社の阿加流比売(あかるひめ)を追って来日します。都怒我阿羅斯等と天日槍命が追いかけて来た「美しい乙女」はどちらも「ヒメコソ神社」の女神ですので、二人はほぼ同一人物になりますが、「ヒメコソ神社」の女神を追って来た世代も、どちらも垂仁天皇世代になります。また『日本書紀』は天日槍命は来帰(帰って来た)と記しますので、その前に登場する人物(都怒我阿羅斯等)と観念上では同一人物でしょう。

 このほぼ同一人物である二人の話を繋げると、都怒我阿羅斯等は崇神天皇の時代に任那から敦賀に来日し垂仁天皇の時に一旦帰国します。任那で結婚した天日槍命は妻である「ヒメコソ神社」の女神、難波の阿加流比売を追って再来日しますが、難波には入れずに但馬に留まったと言うことになります。つまり「美しい乙女」を中心点に置くと、都怒我阿羅斯等=「美しい乙女」=天日槍命となりますので話が繋がります。

 『古事記』には天日槍命の系譜が載り、以下となります。但馬国の出嶋(いずし)の人太耳(ふとみみ)の女麻多烏(またお)を娶って、但馬諸助(たじまもろすく)を生んだ。諸助は、但馬日楢杵(たじまひならき)を生んだ。日楢杵は、清彦を生み、清彦は、田道間守(たじまもり)を生んだと記されます。

天日槍―但馬諸助―但馬日楢杵―清彦―田道間守

 『日本書紀』の垂仁天皇紀は、この都怒我阿羅斯等と天日槍を述べることから始まります。その後に沙穂彦王の乱や、いくつかの事柄を述べた後に、天日槍命の曽孫である清彦が、家宝である宝を垂仁天皇に献上する話を載せるなど天日槍命の末裔について詳細に語ります。言うなれば垂仁天皇紀は天日槍命の物語ですが、最後には天日槍命の末裔の田道間守(たじまもり)の業績を語ります。

 田道間守は天皇に命じられて非時の香菓(ときじくのかぐのこのみ)を探しに常世国(とこよのくに)へ遣わされます。この麗しい名前の「非時の香菓」は橘というとあり、それは今で言うところのミカンに当たると言われています。この蜜柑こと「橘」は天日槍の一族を示すキーワードになっていきますので頭に入れておいてください。

 「非時の香菓」を取りに行った田道間守が十年後に帰ってくると、天皇は既に亡くなっていたといいます。それを聞き嘆き悲しんだ田道間守は自ら命を絶ったと『日本書紀』は語り、垂仁天皇紀を閉じます。

 これを纏めると『日本書紀』の垂仁天皇紀は、任那からやって来た一族の蘇那曷叱智=都怒我阿羅斯等=天日槍命で始まり、その子孫の田道間守で終わります。要するに垂仁天皇紀は、前後を占めている新羅の王子を主題にしている訳です。

垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)は天日槍命2

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“垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)は天日槍命1” への2件のフィードバック

  1. […]  垂仁天皇とは新羅の国の王子、天日槍命の一族の投影であることは検討済みです。開化天皇は「孝」が接頭する天皇、それに続く物部氏の天皇が融合したのが開化天皇ですが、それとは別王朝の天日槍命系の垂仁天皇の王朝が、これと並行していたようです。 […]

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