垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)は天日槍命2


 都怒我阿羅斯等に続けて新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)の来日へと『日本書紀』の記事は推移します。天日槍の来日後に但馬国(兵庫県豊岡市)に留まったことを記す『日本書紀』ですが、来日の由来を『日本書紀』は語りません。それは『古事記』に記されており、天日槍命は母国にいる時に「赤い玉」を手に入れ自宅の床に置くと、「赤い玉」は「美しい乙女」に変わり、その「美しい乙女」と結婚します。結婚後、「美しい乙女」は天日槍命に尽くしますが、慢心した天日槍命は妻を罵ります。怒った妻は自分の祖国に帰ると言い放ち出て行き、その妻が向かった祖国とは難波(大阪府)でした。続けて妻は比売碁曽神社(ひめごそじんじゃ)の阿加流比売(あかるひめ)になったとも記されます。その後に天日槍命は妻を追って来日しますが、難波の渡り神が遮ったために、その地には入れず但馬に留まったと語りその由来を締めます。

 先程の都怒我阿羅斯等は任那へ帰国後に「白い石」から生まれて「美しい乙女」になった、比売語曽社の女神を追って再来日しています。その後に『日本書紀』垂仁天皇紀が記す、天日槍命は「赤い玉」から生まれ、「美しい乙女」になった比売碁曽神社の阿加流比売(あかるひめ)を追って来日します。都怒我阿羅斯等と天日槍命が追いかけて来た「美しい乙女」はどちらも「ヒメコソ神社」の女神ですので、二人はほぼ同一人物になりますが、「ヒメコソ神社」の女神を追って来た世代も、どちらも垂仁天皇世代になります。また『日本書紀』は天日槍命は来帰(帰って来た)と記しますので、その前に登場する人物(都怒我阿羅斯等)と観念上では同一人物でしょう。

 このほぼ同一人物である二人の話を繋げると、都怒我阿羅斯等は崇神天皇の時代に任那から敦賀に来日し垂仁天皇の時に一旦帰国します。任那で結婚した天日槍命は妻である「ヒメコソ神社」の女神、難波の阿加流比売を追って再来日しますが、難波には入れずに但馬に留まったと言うことになります。つまり「美しい乙女」を中心点に置くと、都怒我阿羅斯等=「美しい乙女」=天日槍命となりますので話が繋がります。

 『古事記』には天日槍命の系譜が載り、以下となります。但馬国の出嶋(いずし)の人太耳(ふとみみ)の女麻多烏(またお)を娶って、但馬諸助(たじまもろすく)を生んだ。諸助は、但馬日楢杵(たじまひならき)を生んだ。日楢杵は、清彦を生み、清彦は、田道間守(たじまもり)を生んだと記されます。

天日槍―但馬諸助―但馬日楢杵―清彦―田道間守

 『日本書紀』の垂仁天皇紀は、この都怒我阿羅斯等と天日槍を述べることから始まります。その後に沙穂彦王の乱や、いくつかの事柄を述べた後に、天日槍命の曽孫である清彦が、家宝である宝を垂仁天皇に献上する話を載せるなど天日槍命の末裔について詳細に語ります。言うなれば垂仁天皇紀は天日槍命の物語ですが、最後には天日槍命の末裔の田道間守(たじまもり)の業績を語ります。

 田道間守は天皇に命じられて非時の香菓(ときじくのかぐのこのみ)を探しに常世国(とこよのくに)へ遣わされます。この麗しい名前の「非時の香菓」は橘というとあり、それは今で言うところのミカンに当たると言われています。この蜜柑こと「橘」は天日槍命の一族を示すキーワードです。

 「非時の香菓」を取りに行った田道間守が十年後に帰ってくると、天皇は既に亡くなっていたといいます。それを聞き嘆き悲しんだ田道間守は自ら命を絶ったと『日本書紀』は語り、垂仁天皇紀を閉じます。

 これを纏めると『日本書紀』の垂仁天皇紀は、任那からやって来た一族の蘇那曷叱智=都怒我阿羅斯等=天日槍命で始まり、その子孫の田道間守で終わります。要するに垂仁天皇紀は、前後を占めている新羅の王子を主題にしている訳です。

 垂仁天皇紀は天日槍命から始まり、その末裔の田道間守で締められていましたが、その垂仁天皇の陵墓である菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)は、宝来山古墳(ほうらいさんこふん、蓬莱山古墳)(奈良県奈良市尼ヶ辻町)が現在比定されています。古墳の周りは水で満たされており、これを周濠と言いますが、この中には小さな嶋が浮かんでいます。これは陪塚(ばいちょう/ばいづか)といい、古墳の被葬者にとても近い人物が被葬者であることが多く、通常は身内になります。垂仁天皇の陵墓、宝来山古墳の陪塚の被葬者は天日槍命の子孫の田道間守です。普通に考えると田道間守が先祖の墓の陪塚にいるとなるでしょう。

垂仁天皇=天日槍命―田道間守

 この田道間守を祭る神社が兵庫県豊岡市に鎮座する中嶋神社(なかしまじんじゃ)(三宅)です。その神社名「中嶋」の由来は、垂仁天皇陵の周濠の「中に有る嶋」から来ていると言います。

 垂仁天皇陵は水で満たされた周濠内に二つの嶋が有りますが、一つは田道間守が眠る小島と、もう一つは垂仁天皇陵である宝来山古墳です。宝来山古墳の宝来山とは、中国の神仙思想に説かれる三神山の一つである蓬莱山のことです。蓬莱山は東方の海上にあって仙人が住み、不老不死の霊薬があると信じられている山です(『日本大百科全書』)。天日槍命の子孫の田道間守が垂仁天皇のために、「非時の香菓」を探しに行った常世国(とこよのくに)とは蓬莱山です。水で満たされた周濠内の中嶋には、天日槍命の末裔が眠り、大中嶋の蓬莱山古墳の被葬者は、小島の近親者が眠ることになります。これ以上の説明は要らないのではないでしょうか。

 『日本書紀』垂仁天皇紀の最後の文章は、「田道間守は、三宅連の始祖である。」で終わりますが、三宅とは宮家でしょう。天日槍命の系図は天日槍、但馬諸助、但馬日楢杵、清彦、田道間守と続きます。垂仁天皇紀の最後に登場する田道間守は「守」と宮家から臣下になった称号が付与されます。また、垂仁天皇の垂は「たれる」ですが、垂れるとは何処かしらから降ったと言うことの比喩ですから、何処からかと言えば、「任那」からとなります。

 文献から当たれば垂仁天皇が天日槍命だと伝える文献があります。垂仁天皇の和風諡号は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)ですが、『新撰姓氏録』が載せる田遅麻守命(たじまもりのみこと)の子孫の三宅連の出自には「新羅国の王子天日桙命の後也、或説が言うには、活目入彦命(垂仁天皇)を祖とする」とあります。要するに二人は同人と記します。

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