神功皇后の妹の淀姫命と虚空津比売命。火明命を祖とする豊姫の一族。


→比売語曽社の阿加流比売神(アカルヒメ)と香春神社の息長大姫大目命。
→神功皇后、三韓征伐の物語の実態。邪馬台国の宗女台与と淀姫(豊姫)の伝説。
→神功皇后と卑弥呼の時代。『讖緯説』に隠された豊比咩、淀姫と宗女台与。
上記の続きとなります。

9・邪馬台国の女王台与と瀬戸内海

 台与とその配偶者の時代は、「海部氏の伝え」では二六六年以降でしたが、この統治期間と思われる、ここから四〇〇年までの間は、『三国史記』に、倭人の活動が活発に記される時期でした。ここからも、その時代に倭国が朝鮮半島へ活発に展開しているのが分かりますが、どうやらそれを行った女性とは、邪馬台国の女王台与こと、豊比咩、淀姫命でありそうです。また、女王台与の皇子は開化天皇となりますが、『八幡愚童子訓(はちまんぐどうくん)』によれば、この時代に異賊来襲があったと伝えますので、これが事実ならば押し返した記憶が、遠征譚の一つとなったのかもしれません。

 異国征伐を伝える『水鏡』では、淀姫は海底の龍宮にいる龍王から、潮の満ち引きを自在に操れるという干珠満珠を借り受けて、それを使い異国の軍を撃ち破ったとありましたが、それは全て淀姫が行ったこととして記されます。また、この時に付き従ったのは鹿島、住吉の神だともいいます。

 淀姫大明神が神功皇后の妹と記すのが、肥前国一宮の與止日女神社(よどひめじんじゃ)(佐賀県佐賀市大和町大字川上)の文書である、「河上社座主辨髮解状(かわかみしゃざすべんぱつげじょう)」です。そこにはまた、淀姫大明神は、八幡宗廟の叔母であるとも書かれております。

 宇佐八幡宮側の文章である、『八幡宇佐宮御託宣集(はちまんうさぐうごたくせんしゅう)』にも、河上大明神(著者注、與止日女)は豊比咩であるとあり、『八幡愚童訓』にも同様に、豊姫とは河上大明神のことだとあります。

淀姫=豊姫、豊比咩=河上大明神

 豊姫の別名だという淀姫を祭る與止日女神社は、嘉瀬川(かせがわ)沿いに鎮座します。嘉瀬川は別名を川上川ともいいますが、川の名前からか與止日女神社もまた、河上神社と称します。この神功皇后の妹とも伝わる淀姫を祭る神社は、畿内の淀川水系から瀬戸内海沿いにも散見され伝説を残しています。

 畿内の淀川水系は息長氏と強い結びつきがあり、その延長線上に彦根の地名譚となった天津彦根命の子の息長大姫大目命(おきながおおひめおおめのみこと)を祭る、九州の辛国息長大姫大目命神社が鎮座することは既に説明しました。神功皇后は息長帯比売命(『古事記』)と書くことからも、息長氏の姫なのは明確ですから、その妹と伝わる淀姫=豊姫、豊比咩もまた同様の一族に連なるとなります。

 淀姫伝説が残る桂川には與杼神社が鎮座し、社伝では肥前国佐賀郡の與止日女神社より勧請したといいますので、祭神は淀姫となるはずですが、現在は、豊玉姫命を祭ります。これは「神話の部」と「歴史の部」の違いに根差し、同じ意味を有しているとなります。簡単にいうと、歴史的人物で祭るときは淀姫=豊姫であり、同一人物の神話化した神が豊玉姫や玉依姫となるのでしょう。

 淀川は瀬戸内海に注ぎ、その先に九州、そして朝鮮半島へと続くのですが、中間にある瀬戸内海の潮待ちの港として有名なのが、鞆の浦です。鞆の浦を一望できる高台である明神山(みょうじんやま)には淀媛神社(広島県福山市鞆町後地)が鎮座します。祭神の淀姫はこちらでも神功皇后の妹と伝わり、元々は大綿津見命を祭っていたという沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)の祭主を務める身であったといいます。鞆の浦は瀬戸内海の航海の要ともいえますが、この地の祭主であったと伝わるのは、淀姫が女王だと想定すると当然の帰結となるのでしょう。

 瀬戸内に所在する、広島県福山市に鎮座する天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)(神辺町川北)は、『古事記』において綿津見神の娘とされる豊玉姫を祭りますが、『特選神名帳』によれば與止日女神社と同神といいます。神社名から本来は豊姫を祭るのは明確ですが、こちらの祭神は豊玉姫ですから「神話の部」を採用しているとなります。また、その夫の山幸彦こと彦火火出見尊(日子穂々出見命『古事記』)が、虚空津日高(そらみつひこ)と称することには留意が必要です。

豊玉姫
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彦火火出見尊(虚空津日高)

 これらに付け加えると淀姫=豊姫が倭国の女王だとすると、この近畿から九州へと続くベクトルは、考古学上の流れに置くと、大和で完成を迎える所謂ヤマト王権の東から西へと拡がる、前方後円墳の展開と重なるとなるのでしょう。

邪馬台国女王台与、息長氏の一族、淀姫=豊姫(畿内→九州)
前方後円墳の展開(大和国→九州)

10・淀姫、豊姫は火明命の一族

 淀姫は河上大明神と呼ばれ、河上神社の祭神でもありました。この河上神社と同様に表記し、淀姫由来とも伝わる神社が、瀬戸内海に浮かぶ淡路島に鎮座します。

 淡路島の河上神社は延喜式内社で、その歴史は平安時代に遡りますが、これには現在、幾つかの論社があります。その内の兵庫県洲本市五色町鮎原南谷に鎮座する河上神社は、境内に菅原道真公由来のイブキがある歴史深い由緒のあるお社ですが、こちらは元々は淡路市斗ノ内の河上神社から勧請したという説があります。

 どちらの河上神社も現在の祭神は水神の高龗神(たかおかみのかみ)となっていますが、注目すべきは、江戸時代の地誌『味地草(みちぐさ)』によると、斗ノ内の河上神社の祭神は川上首(かわかみのおびと)の祖である火明命(ほあかりのみこと)と淀姫の二座とあることです。

 川上首は『新撰姓氏録』に「右京神別、天孫、火明命之後也」と載り、『味地草』が祭神と伝える、火明命を祖とする一族です。『日本地理志料』は、川上首は肥前国の小城郡川上に居住していたのではと考察しており、それに隣接する佐嘉郡(さがぐん)の式内社が、河上神社こと與止日女神社です。このことから川上首で繋げると、淡路島と肥前の河上神社には関連があると考えられます。

 『味地草』の由来を採るならば、淀姫とは火明命を祖とする一族となりますが、これと同祖とするのが、海部氏であり尾張氏であるのは周知です。淀姫の別名は、豊姫、豊比咩と伝わりましたが、海部氏の伝えでは、邪馬台国の女王台与はこれと音通する「小止与姫」であるといいます。これは『海部氏勘注系図』の十一世孫に記される「日女命」だと思われるのは説明済みです。

火明命(海部氏、尾張氏の祖)―淀姫=豊姫、豊比咩(小止与姫、邪馬台国の女王台与)→川上首

 『海部氏勘注系図』は始祖を彦火明命と置き、その十一世孫には小止与姫と思われる「日女命」が記されます。『新撰姓氏録』が伝える通り、川上首はその子孫となりますが、「勘注系図」にも、三代後の十四世孫にはその「川上」が接頭する、川上眞稚命(かわかみのまわかのみこと)が記されます。この人物は「丹波道主命」と伝わります。丹波道主命は開化天皇の孫であり、京丹後市久美浜にも地盤を持ちますが、今までみてきたように、川上一族の勢力範囲とは丹波や九州など一地方に留まらないということです。

小止与姫(十一世孫:邪馬台国の女王台与)―建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命)

 他にも川上氏を伝える文献に『備中誌』があり、そこには武内宿禰三代に川上臣がいると記されます。『住吉大社神代記』は武内宿禰の先祖の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、開化天皇の皇子と伝えていますから、この伝えを採っても川上一族は、この系譜の中にいる人物だということになります。

火明命―小止与姫(邪馬台国の女王台与)―建稲種命(開化天皇)―比古布都押之信命→武内宿禰→川上臣

11・悲しみの神功皇后の妹伝説

 淀姫こと豊姫、豊比咩は、神功皇后の妹とされた姫でした。国史である『古事記』では神功皇后の妹として、「虚空津比売命(そらみつひめのみこと)」が記されることから、神社の由緒などでは、その説をとって、この姫を祭神として挙げている場合も多くあります。「虚空」とは天と地の間を表す言葉ですが、神と人間の中間的な存在をも想起させるこの名が「神功皇后の妹」に与えられたことには、何か意味深なものを感じます。

 『古事記』が伝える神功皇后の妹と類似するのが饒速日命に纏わる伝承です。物部氏の祖である饒速日命は、天磐船に乗り、大空を飛びめぐり、その際に上空から日本国を形容した名称が、「虛空見日本國(そらみつやまとのくに)」です。伝承では台与姫は、物部氏の崇神天皇と婚姻していることからも、「虛空」の一致は偶然ではないのかもしれません。

 今までみてきましたように、淀姫こと豊姫、豊比咩は、神功皇后の妹にされ覆い隠され、その事績や名前を奪われているように感じます。これを反映するかのように、神功皇后の妹は、各地に悲しい伝説を残します。

 佐賀県武雄市の淀姫神社(朝日町大字中野川上)では、淀姫は二十二歳の若さで、この地で亡くなったため、その御霊を祭るために創建されたと伝えられます。倉敷市連島地区(つらじまちく)では、姫は島流しの流罪になったとされます。

 祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)と呼ばれ、歴史に名高い神功皇后の妹君にあたる。伝説によれば、西暦一九三年、神功皇后が三韓征伐から戻ってくると、姫がある男と恋におちいり懐妊していたので、これを怒った皇后は、身重な身体にも拘らず姫をうつろ船(丸木船にのせ、乳母を一人つけて泉州(今の堺市)から流罪にたという。姫をのせた船は、途中諸々の土地を漂流したが、誰も後難れて上陸させなかった。たまたま島の沖合にさしかかったとき、出漁中連島の漁民が、すでに死人のように打倒れている二人を助け、丁重にもてなした。かねて懐妊中の姫は、日ならずして女児を出産したが、早産であったため、嬰児はまもなく死んでしまった。当時の慣わしに従い、水葬しようとしたが、一向に沖へ流れないので、これは、この子の魂が母を慕って戻ってぐるに違いないと考え、遺体を持丁重に埋葬した。 その後、母も産後の日だちが悪くてなくなり、乳母もこれを追うようにして死んでしまった。そこで、 連島の民は西之浦の一の明神姫、二の明神に嬰児、三の明神に乳母をそれぞれ祭り、一方、茂浦の五帝神社(五の明神)には、姫を救ったときに枕とした石、また亀島神社(四の明神)には、姫を救ったときに敷物にした苫をそれぞれ神体として祭った。(川崎製鉄株式会社水島製鉄所 編『わが町くらしき』)

 『連嶋町史(つらじまちょうし)』によれば、神功皇后の妹は物部氏の宅で看護され、姫は亡くなった後に、蛇になって昇天したと伝わります。蛇は龍神の化身ですが、これは河上神社で祭られる、高龗神の神格に通じるのではと思います。また、姫が乗った船は、空虚(うつろ)というのも、物部氏の暗示なのではと感じられます。

 このように、神功皇后の妹とされる姫には、悲しみに満ちた伝説が多く伝えられていますが、これは彼女が歴史の中で意図的に隠された存在であることと関係していると考えるのは、著者の感傷にすぎないのでしょうか。(20250517)

引用文献
『わが町くらしき』川崎製鉄株式会社水島製鉄所 編 川崎製鉄水島製鉄所 1981.10

参考文献
(1)『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022
(2)『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023

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