美作国一宮中山神社の祭神からみる「ヤマト王権」の伸張と展開。


1・美作国一宮の中山神社

 美作国の一宮は中山神社といいます。その創建は社伝には、慶雲年間(七〇四から七〇八年)とあり、これに従えば、和銅六年(七一三年)に備前国より割譲され建国された美作国の誕生以前のこととなります。鎮座の由来は、慶雲四年(または三年)に中山麓の鵜羽川川上の長良が嵩に神が化現したといいます。
 「社傳取調書」では、祭神は中央に鏡作尊、左に瓊々杵尊、右に大己貴命とし、その年代はそれぞれ大己貴命は、神代の時代、瓊々杵尊は懿徳天皇四年、鏡作尊は慶雲四年の神勅によるとします。

 中山大神は英田郡楢原郷に出現し、その後苫田郡田辺郷の霧山に移ったといいます。それは老翁に化けた白馬に召されたとあり、また、その地の有木という者を供したといいます。そこで大神は鵜ノ羽をとって水に流し、それが留まったところに神祠を建てるようにと神託し、それが流れ着いたのが中山麓の長良ヶ嶽の下だと伝わります。有木と在地の中島頼名は、謀ってその地に神殿を造営し営み、神を祭ったいいます。その後、神勅により、藤内は美作国東半分を、有木は西半分を廻り、奉賽を収めたといいます。

 このように中山神社の祭神は時系列で、まずは神代に大己貴命、その後に懿徳天皇御宇に瓊々杵尊、更に降って慶雲年間に鏡作尊の奉斎となります。『中山神社縁由』では、この地は、元は大己貴命が住んだ地でありましたが、懿徳天皇の時代に、瓊々杵尊がこの地に降臨して、これを譲ることになり、大己貴命は神社の鳥居の外にある祝木(いほぎ)に移り住んだといいます。また、この時に懿徳天皇がこの地に行幸したとも伝わります。その後に、神託があり、中島頼名により、大己貴命と瓊々杵尊は相殿に共に斎祭ったといいます。

 「社傳取調書」では祭神は、中央に鏡作尊、左に瓊々杵尊、右に大己貴命でしたが、中山神社の祭神には、この他には石凝姥命、天糠戸尊(あまのぬかどのみこと)(石凝姥命の親)、天鏡尊(あまのかがみのみこと)、吉備津彦命、天照大神第三子、天御中主神など諸説あります。明治には金山彦神となった時代がありましたが、後に改めました。また、平安時代の物語の『今昔物語』では、中参(中山神社)は猿と書かれ、これは現在も境内末社に猿田彦大神を祭る猿神社があり、これと関係していると思われます。

 社名の「中山」は社伝によると、神楽尾山と黒澤山の中間に所在するためといいます。美作国は、和銅六年に備前国より分国された国で、その備前国一宮の吉備津彦神社は「吉備の中山」の麓に鎮座し、その元宮磐座はその地にあることから、分国された一宮の中山神社も、その分霊という説があります。これを採るのが、「美作稱抜書」や、『作陽誌』です。

 このように中山神社の祭神や、社名の由来には諸説あります。一見、どれも異なる事象を表しているように感じますが、これは結局のところ時系列で祭られた、それぞれの神を表しているに過ぎないと思われます。三、四世記の倭国は所謂「ヤマト王権」成立の時代に当たりますが、これら諸祭神は、この時代に関わった神となります。美作国もまた、この歴史の流動期に、そのうねりを受けたことが、その歴史を紐解くとみえて来ます。

2・瓊々杵尊と饒速日命の類似性

 中山神社の地に最初にいた神は、大己貴命で、地元神と伝わりました。由緒からは、大己貴命は懿徳天皇の時代に、瓊々杵尊を奉斎する一族へ、この地を譲り渡したとなります。著書で述べた次第(1)ですが、懿徳天皇は宇佐神宮宮司家の子孫の宇佐公康氏によれば物部氏の首長だといいます。この物部氏の開祖は饒速日尊になります。

 饒速日命は日向国の「速日の峯」への降臨伝承があり、これは所謂日向三代の鸕鶿草葺不合尊の陵墓参考地に治定されている、吾平山上陵の「速日峯」と音通しますので、饒速日尊は瓊々杵尊を始めとする日向三代と由縁が深い人物となるのは、再三申し上げてる次第です。より端的にいえば、饒速日命と瓊々杵尊は類似する伝承を持つことから、二神は同一神が疑われます。饒速日命は、『先代旧事本紀』天神本紀では三十二人の防御(ふせぎまもり)、五部(いつとものお)の人などの随伴者と共に降臨したと伝え、一方の瓊々杵尊も降臨時に、同様の三十二人の神々(『伊勢二所皇太神御鎮座傳記(いせにしょこうたじんごちんざでんき)』)と、五部の神(『日本書紀』)を随伴したと各書で記されます。

 また、『海部氏勘注系図』では饒速日命の別名が瓊々杵尊と伝えます。『海部氏勘注系図』の十世孫には伊岐志饒穂命(いきしにぎほのみこと)が載り、これは『先代旧事本紀』が饒速日尊の亦名と伝える胆杵磯丹杵穂命(いきしにきほのみこと)と同一神と思われます。
 伊岐志饒穂命が饒速日命と完全に同一神かといえば、その分注に「阿刀連等祖、亦云、味饒田命」とあり、この味饒田命は饒速日命の孫と伝わりますので、伊岐志饒穂命は饒速日命自体ではないとなりますが、その子孫であるには違いません。胆杵磯丹杵穂命を『先代旧事本紀』が饒速日尊の亦名と伝える意味とは、恐らくはその後継者や襲名者の意味となるのではないでしょうか。

 『海部氏勘注系図』ではもう一つ重要な事柄をこの伊岐志饒穂命の分注に記しており、そこには「亦云、彦火瓊〃杵命」とあります。これを採るならば、伊岐志饒穂命は瓊々杵尊と同一神となりますので、饒速日命と同一神または孫に当たるとなります。先ほどの日向国の「速日の峯」には饒速日命の降臨と、天孫降臨の二つの伝えが残りますが、これは矛盾しないとなるのではないでしょうか。

饒速日命≒瓊々杵尊
饒速日命―○―伊岐志饒穂命(=瓊々杵尊、阿刀連等祖)→物部氏へ
饒速日命―○―安寧天皇―懿徳天皇(物部氏の首長)

 上記を勘案すると中山神社の地に降臨したという瓊々杵尊は、同地に行幸したと伝わる、物部氏の首長という懿徳天皇が奉斎していたと考えて矛盾がないとなります。

3・中山神社へ行幸した懿徳天皇の世代

 吉備国で起きた、五十狭芹彦命と温羅命の間で起きた国譲りの世代は、大山祇神社の系譜から五十狭芹彦命と大新川命は同一人物が想定されますので、孝霊天皇の孫か曾孫世代が想定されます。これを『海部氏勘注系図』を基に考えると、九世孫世代が、孝霊天皇の皇子の倭迹々日百襲姫命や孝元天皇世代となりますので、その次の十世孫か十一世孫世代がこれに当たるとなります。

饒速日命―○―大新川命世代1(十世孫世代)―大新川命世代2(十一世孫世代)

 中山神社に行幸したという懿徳天皇の世代は、著者は十一世孫を想定しています。その概略を記すと、懿徳天皇の皇后の天豊津媛命(あまつとよひめのみこと)が、十一世孫の日女命の分注に記される「小豊姫」と想定できることと、次の十二世孫の建稲種命が分注に「彦大毘毘命(ひこおおびびのみこと)」とあり、これが開化天皇の和風諡号であることからこの世代が、「記紀」の皇統譜が伝える第九代天皇世代に当たるとみられますが、そこから、「孝」が接頭する、孝昭、孝安、孝霊、孝元天皇の四代除くと、開化天皇の前代は懿徳天皇となりますので十一世孫が、それに該当するとなります。

 先ほども述べましたが、孝元天皇は九世孫であるため、そこから遡った八、七、六世孫世代が孝霊、孝安、孝昭天皇世代となると想定されます。初代の神武天皇は複数人の合成物でゼロカウントになり、二、三代の綏靖、安寧天皇は大凡九、十世孫当たりにその世代が該当します。詳細は著書をご参照下さい。単純化すると下記になります。

1、神武天皇は後の複数人に事績が分けて記されているので、架空でゼロカウント。
2、孝昭(5:六世孫)―孝安(6:七世孫)―孝霊(7:八世孫)―孝元(8:九世孫)
3、綏靖(2: 九世孫)―安寧(3: 十世孫)―懿徳(4: 十一世孫)―開化(9: 十二世孫)
饒速日命―○―安寧天皇(十世孫)―懿徳天皇(十一世孫)―開化天皇(十一世孫)
※世代は省略

 このように並べると、物部氏の吉備津彦命こと五十狭芹彦命(大新川命)の温羅命の征伐と、中山神社で起きた懿徳天皇の行幸は、ほぼ同世代に当たるとなり、伝承の正しさの蓋然性が高いことが分かります。再三ですが、懿徳天皇の次世代の十二世孫世代には、一名、「建甕槌命(『三輪高宮家系』)」と伝わる建飯片隅命が記されることから、この世代が神話で、出雲の国譲りとして描かれる時代と思われます。まず吉備、伊予国を堅めた後に、出雲国で国譲りを行ったのではと系譜からは想定できます。

4・『今昔物語』の猿と猿田彦大神

 中山神社の祭神の候補は、鏡作尊、瓊々杵尊、大己貴命、石凝姥命、天鏡尊、吉備津彦命、天照大神第三子、天御中主神、猿田彦大神でした。この内の、瓊々杵尊(饒速日命)は懿徳天皇の御祖神、吉備津彦命はその将軍、または在地のプレ吉備津彦命がこれに当たると思われます。これは勧請元の吉備津神社と同様の構図です。大己貴命も吉備国で行われた国譲りで鬼とされた温羅命は、その一族が想定されたので、この地でも同様になります。

 猿田彦大神ですが、この神は天照大神の分身と伝わり、伊勢神道では、天下の土君(つちぎみ)であり、国底立神であるといいます(『伊勢二所皇太神御鎮座傳記』)。伊勢神道ではまた、国常立尊は国底立神と称し、亦名は天御中主神だといいます。天御中主神は大元神と呼ばれ、亦名は豊受大神ともなりますので、それと比肩できる猿田彦大神は、大変大きな神となります。この伊勢外宮の豊受大神と対になるのが、内宮の天照大神となるのはいわずもがなで、猿田彦大神はその分身と伝わるのは前記の通りです。豊受大神の「ウケ」は氣と通じるとなりますが、猿田彦大神もまた氣神となります。

 猿田彦大神は『日本書紀』では、瓊々杵尊が天孫降臨する際に、先導役となった神として描かれます。五十狭芹彦命に伊豫国を譲った伊豫津彦命などの場面でもみたように、国譲りで、導きをするというのは意訳すれば、降伏をしたということです。それを導いたという、猿田彦大神に当てはめると、大神は瓊々杵尊よりも前に、天下の土君として君臨し、その神徳は太陽神の天照大神、水神の豊受大神と同格となるのですから、瓊々杵尊より以前にいた葦原中国の統治者の降伏とみて不都合はありません。

 『日本書紀』において高皇産霊尊は経津主神、武甕槌神を派遣して、葦原中国を平定しますが、この時に瓊々杵尊の降臨より以前に、その地を統治していたのが大己貴神です。大己貴神が奉斎していた神とは、太陽と水の根元神となるのでしょうが、国譲りの一連を追えば、それは猿田彦大神ともいえるとなるのでしょう。

 中山神社は霧山から鵜ノ羽を水に流し、それが流れ着いた中山麓の長良ヶ嶽の下に鎮座したのがその始まりで、『津山市史』によると、長良ヶ嶽は、元は大己貴神が鎮まっていた地であったと記されます。この長良ヶ嶽には磐座があり、猿神社が鎮座します。

 『今昔物語』が記す中参の猿とは、中山神社の猿神社を指すと思われます。話の概要は、中山では古来より、毎年の祭りに美しい娘を猿神に生贄として奉り絶えることがないといいます。ある年に選ばれてしまった娘は親子共々嘆き悲しんでいましたが、その時に東国の荒武者が通りがかり、娘を守ろうと提案し、親子はこれを受入れます。武者は当日の準備のために犬を飼い慣らし、猿を襲う訓練を施します。武者は祭りに日に、娘の代わりに長櫃に入り待ち構えます。そこに猿たちがやってきて、その内の大猿が長櫃の結びひもを解いて蓋を開けようとしたその時に、武者は犬たちに猿に襲いかかるように命令を下します。その隙に武者は長櫃から飛び出して、大猿を捕まえ、まな板の上に乗せて、その首に刀を当てました。武者は大猿に「首を切って犬に食わせるぞ」といい放つと、大猿は血の涙目で命乞いをします。最初は許さなかった武者も、大猿から二度と人の生贄など以前のような行いはしないことを誓う約束を取り付けて、最後には大猿を許します。その後、由緒のある家の者であった武者と、助けてもらった美しい娘は夫婦となり長年連れ添ったといいます。また、その国では人の代わりに猪と鹿が捧げれれるようになったといいます。

 以上が民話の概要になりますが、この物語は、桃太郎に類似点があることに気づきます。そのモデルの温羅命討伐譚では、鬼とされた温羅命は犬に首を食われましたが、美作国の物語でも、退治される大猿は犬に襲われます。また、討伐者の五十狭芹彦命は在地の姫を娶りその地に血を割譲したと思われますが、こちらでも在地の娘と婚姻する結末です。この物語は吉備国で起こった国譲りの伝承が、美作国に残った残照と考えて良いでしょう。

 『今昔物語』の猿の物語のモデルは、猿神社の祭神が大猿だとすると、それは祭神の猿田彦大神のこととなります。猿田彦大神は、国譲りの前の根元神の国常立尊の要素を持つ神でしたが、これは大己貴神が奉斎していた神と思われます。
 天御中主神は、五十狭芹彦命の前の吉備津彦命が吉備国で奉斎していた神ではと分析しましたが、国常立尊はこの神の別名となります。吉備津神社では、討伐された温羅命を奉斎する艮御崎社は、正宮内で祭られますが、そこからの分祀と思われる美作国の中山神社でも、境内に中山の神の祖神を祭るという御先神社があり、稲荷社ともされています。

長良ヶ嶽の磐座と猿神社

5・天照大神第三子の天津彦根命と天目一箇命

 残る祭神の鏡作尊は中山神社側の説明では、石凝姥命の御業の御上により石凝姥命を特に尊称した名だといいます。石凝姥命は『古事記』では鏡を作った神として描かれ、『日本書紀』では、鏡作の上祖、鏡作連祖と記される神です。石凝姥命は瓊々杵尊が天孫降臨する際の五伴緒(いつのとものお)の神の一柱であり、瓊々杵尊は懿徳天皇が奉斎した神であることを考えると、その時代の国譲りの際に関係した神と思われます。

 大和国には「鏡作」を冠した鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)(奈良県磯城郡田原本町八尾)が鎮座し、社伝によると宮中の内侍所の鏡は崇神天皇六年九月三日に、この地で制作された物だといいます。この鏡は「神道五分書」には石凝姥命が作ったとあります。これら二つの伝えを繋げると石凝姥命が、崇神天皇六年に鋳造したとなります。
 石凝姥命は各氏の出自を記した『新撰姓氏録』に載らないのをみると、石凝姥命は孝霊朝以降から崇神朝の歴史時代を物語で描いた、「神話の部」の登場人物となると思われます。中山神社に行幸したという懿徳天皇の時代は、「記紀」が崇神朝として描く範囲内であることは再三述べているところですが、「神話の部」で石凝姥命とされた人物の一族もまた、この遠征に参加していたのではと考えられます。

 その人物を考える手がかりとなるのが、中山神社の祭神候補の一人として挙がる天照大神の第三御子鏡作神です。天照大神の第三子となれば天津彦根命となりますので、『諸社根源記』の説ではこの神が、鏡作神とということになります。天津彦根命自体の鏡製作伝承を著者は今のところ把握していませんが、その御子と伝わる天目一箇命(あまのまひとつのみこと)は、『古語拾遺』に、その裔が鏡と剣を作ったと記されます。これは「神道五分書」でも同様で、内侍所の鏡は天目一箇命の裔が制作したと伝えます。

 天目一箇命は天津彦根命の子で、山城国神別の山背忌寸の祖として『新撰姓氏録』に記されます。天目一箇命の親と伝わる天津彦根命は「山背」国に由縁があるとなりますが、『海部氏勘注系図』には、この「山背」をその名に内包する、玉勝山背根子命(たまかつやましろねこのみこと)が記され、その亦名が天津彦根命だと記されます。

天津彦根命(=玉勝山背根子命)―天目一箇命→山背忌寸

 このことから神話で描かれる天津彦根命の実態は、この玉勝山背根子命となりそうです。系図はこの御子世代として、饒速日命の別名と想定される伊岐志饒穂命を挙げますので、先ほどの天津彦根命の御子の天目一箇命と世代で揃うとなります。

天津彦根命―天目一箇命
玉勝山背根子命―伊岐志饒穂命

 中山神社の地で起こった当地の国譲りは「記紀」が崇神朝として描いた時代に起こった出来事とみてよいでしょう。それはこの地からみて東からやって来た所謂「ヤマト王権」の勢力に加担した一族となるのでしょうが、苫田郡の香々美、竹田の地名は鏡作部、鏡作連、竹田川辺連等を祖とする一族が移住し、その祖神を祭ったものと伝えられているといいます(『苫田郡誌』)。

6・美作国二宮の髙野神社と蛇

 美作国の戦略的重要性はさることながら、和歌で吉備国は、「まがねふく吉備の中山」とうたわれ、これは蹈鞴製鉄を表しているといいますから、その面でも注目される地であったと思われます。一説には、鉄が山間部で採れることから、この「吉備の中山」とは美作国の中山だという説があり(2)、これを考慮すると、鏡作りの一族が、当地にやって来た目的は鉄を求めてとなるのかもしれません。

 鏡作神について今一つ考えるなら、伊勢神道では国常立尊は、眞経津寶鏡を鑄したと伝え、『日本書紀』は、その子として天鏡尊を挙げます。備中や伊豫国で起こっていた在地の神を引継ぎ祭ったとしたならば、鏡作神とは一宮中山神社の在地の神であった国常立尊(猿田彦大神)のこととなるのかもしれません。

 美作国の二宮との関連を考慮すると、『今昔物語』では、中参(中山神社)は猿と書かれ、続けて高野(こうや)は蛇と続きます。この高野の蛇とは、美作国二宮の髙野神社とその祭神のことと思われます。一宮の中山神社の「猿」は、猿田彦大神となるのは容易な連想ですが、この図式を二宮の髙野神社の主祭神の彦波限武鵜葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)に当て嵌めると、鵜葺不合尊が「蛇」となってしまいます。著者は今のところ鵜葺不合尊が「蛇」という伝承を把握していませんので、どこか腑に落ちない考えです。「蛇」といえば、龍に例えられることから水神か、すぐに頭に思い浮かぶ神としては大神神社の大物主神となるのではないでしょうか。

 「蛇」神に深い由来がある、三輪山の神と同じ地名を起源とするのが高野神社です。髙野神社は古来美和山といわれ、南前面に神の降臨の伝承をもつ神奈備山を望み、吉井川の本流に各河川が合流するところを、その鎮座地とします(『津山市史』)。当初、社殿はなく、神は吉井川の河原にあった、「おのころ岩」にみあれした神を美和山にて、斎き祭ったと伝わり、『津山市史』ではこの神を水神としています。このことから『今昔物語』がいう、「蛇」神は美和山で祭られているとなりますから、この神は大和国の三輪山の神と同じとみてよいでしょう。

 大和国の三輪山の神は、大己貴神が祭った太陽と水神であろうことは、すでに述べましたので繰り返しません。一宮の中山神社が太陽神の猿田彦大神、二宮が水神であることを考えると、それは合わせて男女一対の神となるとの想像は飛躍ではないでしょう。

 髙野神社の主祭神の彦波限武鵜葺不合尊は、瓊々杵尊から続く日向三代に連なります。美作国で起きた事柄を考えるとこれは、統治者側の神が主となったのではと思われます。

7・美作国の肩野部の長者乙丸とシロゴロの神

 美作国の中山神社の地にはまず、国常立尊(猿田彦大神)を奉斎する大己貴神を祖とするであろう一族がおり、この後に瓊々杵尊を祖とする物部氏が入って来たとなり、その目的は鏡作神の奉斎から金属ではないかと思われます。

 地主神である大己貴神は、当初は鳥居の外の祝木(いほぎ)のケヤキの祠に追いやられていました。このことの一端を表していると思われる伝承が、岡山市北区に鎮座する志呂神社(建部町下神目)に残っています。それを『岡山県大百科事典』を元に纏めると以下のようになります。

 志呂神社は和銅六年に創建と伝わり、祭神は事代主神で、相殿に大国主命を祭ります。伝説では、中山の神がこの国に天降ったとき、これより先に大国主命を祭っていた肩野部の長者乙丸がおり、乙丸は、中山の神を心よく迎えませんでした。中山神に仕えるシロゴロ(贄賄犭吾狼神)の神は乙丸を強く咎めたところ、乙丸は毎年人贄に代わりに鹿二頭を奉ると誓って、弓削庄(志呂神社鎮座地)に落ちのびました。その後のある年に鹿贄を怠ると、シロゴロの神の酷い祟りを受けたため、在所に宮を立てシロゴロの神を迎えて、代の神として祭ったといいます。そして中山の神を補佐する、上の宮の神を厨谷大明神の所 (久米郡久米南町下弓削)に迎えて、共に鹿贄を召し上がったと伝わります。先ほどの『今昔物語』の大猿でも、人贄に代わりに鹿贄となり、こちらのシロゴロの神も同様の変化となっています。

 この伝承は『岡山県大百科事典』によれば、天降った中山の神に在来の神が服属し協力して国を鎮めた神話であるといいます。これまでの流れでは、「ヤマト王権」と在地の氏族は当初平和裡に、統治権の移譲を解決したのではありませんでした。吉備国に派遣されたのは四道将軍の一人の吉備津彦命でしたが、恐らくはこの征伐と懐柔の遠征は、四道将軍と伝えられる人物が活動した地域で、当時全国でみられた現象と思われます。

 これら伝説になった歴史事象の数百年後には、祝木で祭られていた大己貴神も鏡作尊の神勅により、相殿に祭られ現在に至ります。境内にはその他に地主神の大国主命を祭る国司社(くにししゃ)が、社殿の横には「鉾立石」があり国難の際には本殿に移して、祈念されるなど重要な役割を果たしています。美作国は三世記後半頃から起こった「ヤマト王権」の全国統治の縮図が窺える地域ですが、現在は神社の境内には双方の神が祭られているとなります。(20250225)


(1)  『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023
(2) 美作女子大学・美作短期大学研究紀要 (21) 美作女子大学 1976

参考文献
鑑賞日本古典文学 第13巻 角川書店 1976
『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022
『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023

【関連動画】


“美作国一宮中山神社の祭神からみる「ヤマト王権」の伸張と展開。” への2件のフィードバック

  1. 国譲りした首長が神となり祀られる。吉備津彦が物部氏で鉄を求めて温羅を攻める。吉備津神社の鳴釜は温羅の一族が勤め、温羅の霊を鎮める。吉備津彦と製鉄は岡山の歴史の要ですね。ありがとうございます。

    • コメントありがとうございます♪この図式はヤマト政権の伸長範囲で全国規模で起こったと思われます。平和裏とは、地元の姫を娶り、男系を変えることなのでしょう。

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