海部氏勘注系図の解説11 かぐや姫の世代。日葉酢姫命と迦具夜比売命。


 二つの「カグロヒメ」は景行天皇妃であり応神天皇妃でした。これと対応する十五世孫の息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)は、応神天皇妃ですが、『上宮記逸文(じょうぐうきいつぶん)』によれば、この応神天皇とは凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)ですから垂仁天皇の皇子となります。これは世代としては景行天皇世代に当たるとなり、景行天皇妃であり応神天皇妃が成り立ちます。二つの倭建命を組み合わせると下記となりました。

倭建命(十二世孫: 建飯片隅命、建甕槌神)―若建王(十三世孫:息長田別王)―須売伊呂大中日子王(十四世孫:杙俣長日子王)―訶具漏比売(十五世孫:景行天皇妃=息長真若中比売=応神天皇妃)―迦具漏比売(十六世孫:応神天皇妃=百師木伊呂弁)―忍坂大中比売(十七世孫: 登冨志郎女)

 十二世孫の倭建命を祖とする系譜にはもう一つありそれは日子坐王、丹波道主命(川上眞稚命)と続く物でした。結論から記すとこれらは同一の系譜となります。

倭建命(十二世孫: 建飯賀田須命、倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)

 息長真若中比売こと「カグロヒメ」は御伽話の「かぐや姫」と音が非常に類似します。実は『古事記』には垂仁天皇の妃に迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)という姫が記されます。よく知られているように物語のかぐや姫は「竹」から生まれます。歴史上の人物のかぐや姫の父は大箇木垂根王(おおつつきたりねのみこ)といい、この名前に内包される箇木とは、筒の木ですから竹だと想像出来ますので迦具夜比売命は、まさに竹から生まれた子になります。

 迦具夜比売命の父の大箇木垂根王は開化天皇の皇子の比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)です。御伽話のかぐや姫の翁派讃岐造ですが、大箇木垂根王の兄弟には讃岐垂根王がいることから、そのモデルだと想定されます。

開化天皇(十二世孫)―比古由牟須美命(十三世孫:崇神)―大箇木垂根王(十四世孫:垂仁)―迦具夜比売命(十五世孫:景行)

 大箇木垂根王の父の比古由牟須美命は五十瓊敷入彦命であり丹波道主命の義父に当たるであろうことは検討済みです。上記の通り迦具夜比売命は十五世孫世代で垂仁天皇妃ではなく景行天皇世代となると、息長真若中比売こと「カグロヒメ」と重なるのが分かりますので下記が想定出来ます。

開化天皇(十二世孫)―比古由牟須美命(十三世孫: 五十瓊敷入彦命、由碁理)―河上之摩須郎女(十四世孫)

河上之摩須郎女(十四世孫)
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川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、大箇木垂根王)―迦具夜比売命(十五世孫:景行)

 これだけでも川上眞稚命こと丹波道主命の系譜と倭建命の系譜は同一と言えそうですが、もう一つの系譜を重ね合わせると輪郭が明確になります。

倭建命(十二世孫:建飯片隅命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫:大田田命、大田々根子命、若建王、息長田別王)―丹波道主命(十四世孫: 川上眞稚命、須売伊呂大中日子王、杙俣長日子王)―迦具夜比売命(十五世孫: 訶具漏比売=景行天皇妃=息長真若中比売=応神天皇妃)―迦具漏比売(十六世孫:応神天皇妃=百師木伊呂弁)―忍坂大中比売(十七世孫: 登冨志郎女)

 現在の京都府の一部はかつて山城国と呼ばれていました。そこにはかぐや姫の父と音通する筒城宮(箇木)があり、京田辺市の同志社大学京田辺キャンパス辺りがその比定地とされています。この山城の筒城を名前に含んでいる人物が、『古事記』に載る山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきのまわかのみこ)です。山代之大筒木真若王は開化天皇の皇子の日子坐王(ひこいますのみこ)の子です。この日子坐王は『海部氏勘注系図』上では十二世孫の建飯賀田須命(倭建命)の子世代となりました。

倭建命(十二世孫: 建飯賀田須命、倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―山代之大筒木真若王(十四世孫)

 山代之大筒木真若王はその名の通り山城国の筒城に由来を持つと想像されます。その子は迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ)といい、筒城の地の近くに鎮座する朱智神社の祭神であることからも二代に渡りこの地と所以があったと思われます。この一族の系譜はその後に息長宿祢王(おきながすくねのみこ)と続きます。

 山代之大筒木真若王の孫が息長宿祢王ですが、その娘があの有名な神功皇后となります。父息長宿祢王は「息長」に根付いたとの意味と思われる「宿祢」を名乗る王です。神功皇后も息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)といい、その名に「息長」を含む姫となります。

倭建命(十二世孫: 建飯賀田須命、倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―山代之大筒木真若王(十四世孫)―迦迩米雷王(十五世孫)―息長宿祢王(十六世孫)―神功皇后(十七世孫)

 さて十四世孫世代は川上眞稚命、大箇木垂根王、丹波道主命でした。同十四世孫世代の山代之大筒木真若王の名を分解すると山代之大「筒木」「真若」王です。これは川上眞稚命、大箇木垂根王から抽出出来る、「筒木」、「眞稚」と対応しますのでこちらも合算した倭建命の系譜と同様だと分かります。

 また息長杙俣王(杙俣長日子王)家は十六世孫世代の若野毛二俣王が百師木伊呂弁を娶り入婿として継いだと伝えられましたが、同世代の息長宿祢王が「息長」に「宿」って根ざしたとなるのはこれと対応していると思われます。

 シンプルに纏めると丹波道主命の娘が迦具夜比売命となります。『海部氏勘注系図』には十五世孫には川上眞稚命(丹波道主命)の娘と思われる川上日女命を載せ、その分注には「一云、大中日女(おおなかつひめ)」とあります。これは同一人物と想定される息長真若中比売と同様のナカツヒメを伝えていと思われます。

 丹波道主命の父の彦坐王は『但馬故事記』によれば刀我禾鹿宮(とがのあわがのみや)にて部下から「朝して其徳を頌す」と天皇として称えられたと記されます。このことからも彦坐王の系統が大王家(天皇)を継いでいたと思われます。

 丹波道主命が大王家(天皇)を継いでいた一つの傍証が、丹波道主命の子供の名前に残されており、それは朝廷別王(みかどわけのみこ)といいます。その名は朝廷から別れた王と、その父が朝廷(天皇)であったと暗示していると捉えられます。初代から続く「タニハ王朝」はこの丹波道主王、朝廷別王の世代で終焉を迎えます。

【丹波道主王は大王(天皇家)】
開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王
              ―日葉酢媛
                 ||
               垂仁天皇(天日槍命)

 その丹波道主命の娘には垂仁天皇に嫁ぎ皇后となったという日葉酢姫命(ひますひめのみこと)がいます。嫁をとるとは、逆の立場で言えば相手に差出しているとなります。古代において、その風習は宇佐神宮旧宮司家の宇佐公康氏によれば、「友好関係を保つ最高の歓待であり、忠節を誓う儀式」であったといいます(宇佐公康『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』)。これを容易な表現でいえば降伏の証として征服者へ差し出したとなるのでしょう。

 丹波道主命は十四世孫であるので、日葉酢姫命が実在するなら十五世孫となります。これは「勘注系図」の川上日女命と対応しますが、その分注には小さく「一云、日葉酢姫」だと記します。

 神話の世界で伊耶那美神(いざなみのかみ)は不幸があり亡くなり、出雲国と伯伎国との堺の比婆山(ひばやま)に葬られ黄泉の国へ旅立ちます。
 初代から続く「タニハ王朝」の最後の世代に当たる比婆須比売命のその名には墓所と同じ「比婆」の字が使われています。姫の婚姻は観念としてはこの故事を仮託していると想像するのは難しいことではないでしょう。

 迦具夜比売命の結婚は禅譲であり姫は「レガリア」と言い換えられます。物語のかぐや姫が多くの有力者から渇望されると描かれたのは、これを暗示したものではないでしょうか。また御伽話のかぐや姫は最後には月へと帰りますが、それは前王朝の滅亡をそこに秘めたのかもしれません。

建飯片隅命(十二世孫: 建飯賀田須命、倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命)―迦具夜比売命(十五世孫: 訶具漏比売=景行天皇妃=息長真若中比売=応神天皇妃=日葉酢姫)

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