海部氏勘注系図の解説5 神武東征の世代。珍彦と五十瓊敷入彦命。


 神武東征時に付き従ったという天種子命は『海部氏勘注系図』の十三世孫に当たる人物でした。『日本書紀』では神武東征時には豊予海峡で珍彦(うずひこ)と言う人物が登場します。珍彦は神武天皇の水先案内人となり、その褒美として椎根津彦(しいねつひこ)の名を賜ったとされます。

 『日本書紀』によると珍彦は倭直部の始祖だといいます。『新撰姓氏録』にはこの珍彦(宇豆彦)の氏族が載り、「大和国神別、大和宿祢、出自神知津彦命也」と記されます。大和宿祢(やまとのすくね)は神知津彦命(かみしりつひこのみこと)を祖とするとあり、その分注に神知津彦命とは珍彦であり椎根津彦であると記されます。

 『海部氏勘注系図』の十三世孫には珍彦こと神知津彦命と音通する、志理都彦命が記されます。またこの世代には、倭宿禰(やまとのすくね)や「一云、珍彦命」と記載されるのをみても、十三世孫が神武東征時として描かれた珍彦の世代のようです。

 古代氏族の系譜にはまれに世代の混乱が現れます。それについて話はややそれますが述べます。その混乱の原因の一つは、この珍彦命のように本来は初代天皇よりも世代が大分後に降るのにも関わらず、「記紀」が初代天皇の事績の中に命を載せたため系譜の世代も、本来の世代から繰り上がって移動したことによって起こっています。他にも代数が本来より「記紀」の世代が長いため架空の人物を系譜に挿入したりなどの手法が有りますが、またの機会にご説明します。

 『海部氏勘注系図』の十三世孫の本宗上には志理都彦命が記されます。志理都彦命の親世代の十二世孫の本宗上には建稲種命(たけいなだねのみこと)が載り、こちらの分注には「亦云、彦大毘毘命」と開化天皇の和風諡号が見えることから、建稲種命はその天皇の投影だと捉えられます。そうなりますと、その子に当たると思われる志理都彦命は「記紀」の天皇世代に当てはめると崇神天皇が該当するとなります。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇、珍彦命)

 この崇神天皇と重なる動きをしているのが五十瓊敷入彦命です。拙著『神武天皇と卑弥呼の時代』で説明済みですが、要約します。

 五十瓊敷入彦命は、伊香色雄命が斎祭った石上神宮の神宝を管理したと『日本書紀』に載ります。また『先代旧事本紀』を見ると天社、国社(つまり天神地祇)の祭祀が石上神宮で行われています。天神地祇を祭るとは国家祭祀を行っていると思われますが、その神宝を司っているのが五十瓊敷入彦命です。国家祭祀を引き継いでいるとは言うなれば、五十瓊敷入彦命が皇位を継承している傍証といえるでしょう。

 崇神天皇の和風諡号、御間城入彦五十瓊殖天皇の名には「瓊」が含まれています。この「瓊」とは玉のことであり国魂と捉えられます。崇神天皇の和風諡号は、ただの「瓊」ではなく、「五十瓊」で表されます。「五十」は多くの、大きい、という意味ですから、その名に「五十瓊」を含むとは、大和国の言い換えれば日本全体の国魂を得ていると言う名です。また「殖」とはふえて多くある事ですから、「瓊」を殖やすという意味を内包する名を持つ御間城入彦五十瓊殖天皇は、まさに正統な統治者と言える天皇号です。

 崇神天皇こと御間城入彦五十瓊殖天皇の次にこの「瓊」の名を受け継いでいるのが垂仁天皇の子という五十瓊敷入彦命です。「五十瓊」ですから大きいまたは多くの「瓊」を持ち、さらにその「瓊」と、あまねく行き渡らせる「敷」の文字を繋いだ、天皇として相応しい名を持つ命です。これは崇神天皇の「五十瓊殖」と類似します。またこの五十瓊敷入彦命は、石上神宮の神宝の八尺瓊勾玉を司っていますので三種の神器を所有しているとなります。

 五十瓊敷入彦命が王朝の後継者である一つの傍証が旧能登国に当たる石川県にあります。能登国の二宮、天日陰比咩(あめひかげひめ)神社(石川県鹿島郡中能登町二宮子)は崇神天皇と印色之入日子命を配祀します。その神社の後山の天日加氣山(あめひかげやま)頂上では主祭神の天日陰比咩大神を祭りますが、中腹の中御前社は崇神天皇の御廟趾で、皇子印色之入日子命の御陵墓趾でもあると言います。

 中国では王朝の祖霊を祀る「廟」を宗廟、太廟といい、転じて朝廷そのものが廟堂と言い表されました。つまり、「廟」とは王宮の正殿の別表現です(『日本国語大辞典』)。中御前社は印色之入日子命の御陵墓趾であり、崇神天皇の「廟」でもある伝説を素直に受け取れば、二人は同一人物と言えるのではないでしょうか。

 崇神天皇世代は『海部氏勘注系図』では十三世孫の志理都彦命世代が当たりました。この世代の分注には「亦名 五十瓊敷入彦命」と、十四世孫の川上眞稚命は「五十瓊敷入彦命之御子」と記されます。これを見ると十三世孫の本宗の志理都彦命は五十瓊敷入彦命だろうと分かりますので、崇神天皇と五十瓊敷入彦命は同一人物の蓋然性が高いとなります。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命)―川上眞稚命(十四世孫:五十瓊敷入彦命之御子)

 五十瓊敷入彦命は垂仁天皇の皇子と「記紀」は述べますが、実際は開化天皇の子にあたるとなります。

 珍彦命は『日本書紀』では豊予海峡の水先案内人として描かれましたが、『古事記』では吉備国の速吸の海峡で出会ったと記され、賜った名前も槁根津日子(さおねつひこ)と若干異なり、その容姿は亀の甲羅に乗って釣りをしながら鳥が飛び翔るような恰好でやって来たと描写されます。これは亀に乗り釣竿を持つ御伽噺の浦島太郎と類似します。

 籠神社の倭宿禰像は亀に乗り浦島太郎を思わせます。開化天皇から始まる王朝のシンボルが「亀」であり、浦島太郎の投影の一人が珍彦なのでしょう。また珍彦命が神武天皇から名前を賜り、倭「宿禰」と臣下の称号を付与されるのはこの王朝の降伏の暗示だと思われます。
 五十瓊敷入彦命は岐阜県の伊奈波神社の伝承によれば、朝廷の命により奥州を平定したが命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされてその地で討たれたといいます。神武天皇が東征の際に豊国に入ったこと、また宇佐家伝承ではその神武天皇の子が東国に入った御諸別王(みもろわけのみこ)であることを考慮すれば、この伝えとの関係は無視できないといえるのではないでしょうか。

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“海部氏勘注系図の解説5 神武東征の世代。珍彦と五十瓊敷入彦命。” への3件のフィードバック

  1. […]  垂仁天皇は十二世孫世代ですのでその次世代の景行天皇は十三世孫世代になります。この景行天皇の皇后は「記紀」によれば播磨稲日大郎姫(はりまのいなびおおいらつめ)といいますが、「勘注系図」でも景行天皇と同世代の十三世孫世代に「一云、針間之伊那比大郎女」と記し、その正しさを今に伝えています。また神武東征世代は十三世孫世代でしたが、「宇佐家古伝」ではこの神武天皇の兄は景行天皇との伝承もこれに付合します。 […]

  2. […]  宇佐家古伝では御諸別命の父は神武天皇だと伝わることから、その父の稲背入彦命は十三世孫の人物に当たることは見て来ました。景行天皇は十三世孫ですので、稲背入彦命の父は景行天皇ではないとなります。稲背入彦命が彦狭嶋王(吉備の児島)や、播磨別の祖の瀬戸内王であると考えると、稲背入彦命の父は吉備津彦命の一人がその該当者であり、その襲名者が稲背入彦命と推測出来ます。 […]

  3. […]  大王であろう比古布都押信命と崇神天皇は同一人物と想定され、その崇神天皇は珍彦であるのは検討済みです。 武内宿禰の母は『日本書紀』では菟道彦(うじひこ)の女の影媛です(『古事記』では、宇豆比古(うずひこ)の妹の山下影日売(やましたかげひめ))。「因幡国伊福部臣古志」の系図でも菟道彦の女影媛でした。上記検討で比古布都押信命とは珍彦になりますから、ここから導けるのは、武内宿禰の父という比古布都押信命は義父であろうということです。 […]

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