7 「元伊勢」と三輪の神


 二つの系図が重なり合うとしたら、もしかすると皆様の中には三輪の神である大物主神は太陽神を信奉していたのかと疑問に思うかもしれません。
これは有名な話ですが、能の演目「三輪」の台詞は「思えば伊勢と三輪の神、思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座や」と語ります。これは「磐座や」を「言わんや」でかけています。意訳すれば「伊勢と三輪の神が同じ神であるのは、今更敢えて言うまでもないことだ。」になります。伊勢の神とは言うまでもなく伊勢神宮の神、天照大神です。伊勢の神と三輪神が同じ神とは、伊勢の神=天照大神=三輪神です。
伊勢内宮宮司が神宮の行事、儀式などを記し、延暦二十三年(804)に神祇官へ提出した文書に『皇太神宮儀式帳』(こうたいじんぐうぎしきちょう)がありますが、そこには倭姫命によって天照大神は三輪山の頂に祭られたとあります。また天照大神が崇神天皇によって宮中から出された後に最初は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)、それを受け継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)が巡行した地を「元伊勢」と言います。丹後の地の籠神社が「元伊勢」であることは周知だと思います。
「元伊勢」とは勿論天照大神に大きく所以がある地になり、多くの「元伊勢」の祭神は天照大神です。そして、その「元伊勢」のなかでも重要度の高い地が、大神神社になります。
実は大神神社は「元伊勢」です。つまり大物主神とは天照大神その者か、狭義ではそれを信奉していた一族の人物神でしょう。
また三輪山山頂には高宮神社(こうのみやじんじゃ)が有り、祭神は日向御子神(ひむかいみこのかみ)と言います。三輪山山麓の神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)は『式内社』ですが、明治の時代(十八年)に大神神社から内務省へ、山頂の高宮神社と山麓の神坐日向神社との名称が誤って入れ替わっているから訂正したいと上申しましたが、証拠不十分の理由で却下されて現在に至っています。
両社を奥宮と里宮の関係と捉えれば神坐日向神社の祭神から、山頂の高宮神社の日向御子神が誰を祭っているかを想像出来ますが、祭神は櫛御方命(くしみかたのみこと)、飯肩巣見命(いいかたすのみこと)、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の三柱です。櫛御方命は天日方奇日方命の別名です。
この三柱は天日方奇日方命から大田田根子命に続く世代間の人物で、大物主神の御子神が祭られている事が分かります。これを鑑みると恐らく日向御子神とは、大物主神の子孫で三輪山で太陽神を祭って来た人物の総称でしょう。
先ほどの検討を混ぜて考慮すると三輪山山頂の高宮神社の日向御子神は、天照大神の子孫である御子がその神格である太陽の方向へ祈りをささげる人物、つまり「日方」(日向)の一族の御子の総称と推測できそうです。最初にこの地で祭祀を行った人物は、彦火明命(天照大神プロトタイプ)から続く建田勢命、建日方命(建諸隅命)でしょうから、それぞれ日向御子神を投影している神の一人と言えるのではないでしょうか。
また建日方命は別名を建諸隅命(たけもろすみのみこと)と言います。三輪山は別名を御諸山(みもろやま)と言いますが、その名建諸隅命は「御諸山に住んだ」の意味だとすると、その説を補強する傍証となるでしょう。

さて大和国を最初に治めたという一族は今まで検討した系譜の中にいましたが『海部氏勘注系図』によると、建田勢命が丹波国から山城国を経由して大和国に入ったと言います。
また系図は建田勢命が三種の神器のうち鏡と天叢雲剣を所持していたと明かします。ここまでの検討から、建田勢命が大和に君臨した初代天皇と結論出来るでしょう。
三種の神器の内残るは「八尺瓊勾玉」ですが、そもそも物理的な玉というよりは大和統治権、つまり国玉ではと捉えると、大和王(天皇)はそれを得ています。その神格である倭大国魂をいつき祭った一族は、海部氏後裔の一族ですからこれを得ていたと考えていいのではないでしょうか。
また、『倭姫命世紀』によれば建日方命は伊勢国造だと言いますので、大和と伊勢はその時代からこの一族の統治下にあったと見て良いのではないかと思います。

丹後の地には天照大神の原型である、始祖彦火明命を祭る元伊勢籠神社や、建田勢命を祭る矢田神社(やたじんじゃ)(京都府京丹後市久美浜町海士)が鎮座します。これまでの検討から、風光明媚で美しいタニハの国は、大和の始まりを今に伝える大切な地と言えるでしょう。

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