5 大己貴神(大国主神)と大物主神


 2でご紹介した大物主神は『日本書紀』によると大己貴神(大国主神)(以下大国主神)の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)だと言います。そして大和国の大神神社は、この大物主神=大国主神を祭った社だと『日本書紀』は記します。
 大国主神は『出雲国風土記』では「天の下所造らしし大神」と記され、また『日本書紀』では「神代」にその記事が載るように天下、つまり日本国を最初に統治した伝説を持ちます。また『日本書紀』は下記歌を上げてます。

此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久(この神酒は私の神酒ではない。倭の国を造られた大物主大神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄えよ栄えよ)

倭の国を造られたのは大物主大神だと明かします。
話がややこしくなったので、ここで一旦時系列に並べましょう。

大物主神=大国主神―長髄彦尊=事代主神―数代略―大田田根子命

 長髄彦は『日本書紀』において饒速日尊に殺されますが、崇神天皇は饒速日尊の子孫でした。つまり『日本書紀』が記した長髄彦が殺害されるこの逸話は、前王朝である大物主神を奉ずる王朝を崇神天皇が倒した事柄を仮託した物語でしょう。それ故、前王朝の神々(天照大神、大物主神、倭大国魂)は祟り、その神を鎮魂のために祭った訳です。また長髄彦尊は、最初に大和国に君臨した王朝の王者の総称(孝が接頭する天皇)であり、饒速日尊が長髄彦尊を切ったとは、王朝交代の比喩と言えるのではないでしょうか。要するに先程考察した何故、崇神天皇が祟を恐れ謝罪したかの答えは、その祟を恐れたからとなるでしょう。

 さて大神神社は三輪山自体をご神体とする神社です。『日本書紀』は大物主神は大神神社の神だと言い、その子孫が大田田根子命でした。
 大田田根子命の子孫には大神神社の社家三輪高宮家(みわたかみやけ)があります。この三輪高宮家の系図は素戔嗚尊から始まり、大国主命、都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬし)、天事代主櫛入彦命(あまことしろぬしくしいりひこ)、その後に天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)と続き、数代挟んで大田田根子命となります。

 大国主命―事代主命(二代)―天日方奇日方命―数代略―大田田根子命

 事代主命の後という天日方奇日方命は二度も「日方」(ひかた/ひがた)を連呼しますが、「ヒカタ、ヒガタ」とは重要な意味のようです。字をそのまま受け取れば(太陽)に向かっている(日向)となりそうです。
 また右の系図は再三ですが、倭を最初に統治した王朝の系譜と重なります。

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