正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と瓊々杵尊のモデル。複数人の天火明命と天香語山命。


1・複数人の「火明命」、「天香語山命」、「天村雲命」

 『海部氏勘注系図』、「籠名神宮祝部丹波國海部直等氏之本記」の系譜は始祖彦火明命(ひこほあかりのみこと)から始まり、その子に天香語山命(あめのかぐやまのみこと/あまのかぐやまのみこと)、その孫に天村雲命(あめのむらくものみこと)と続きます。この彦火明命、天香語山命、天村雲命は『海部氏勘注系図』の各所に複数回にわたって現れる名です。例えば、十世孫には彦火明命や天照火明命が記され、十一世孫には天香語山命、十二世孫には天村雲命の名が記されます。

 これは恐らくは、太陽神としての神格を持つ、始祖彦火明命のその霊を、代が変わった者が火継をしていることを表しているのだと思われます。その火継をした、「火明命」を起点に、次代が「天香語山命」、その次代が「天村雲命」となっているリズムです。現代に例えればこれは、歌舞伎役者とその子が芸名を受け継いでいるのに似ています。

「火明命」―「天香語山命」―「天村雲命」

 この考えで系譜を眺めると、九世孫はなかなかに象徴的ではないかとの印象を受けます。九世孫の乙彦命の右の分注には、「一云、天火明命」とあり、その火継をしているのかと感じます。また、同世代の玉勝山代根子命の下部分注には「亦云、天香語山命」とあります。これらは八世孫の日本得魂命(やまとえたまのみこと)を、「火明命」とおいた時にそれぞれが襲名者「火明命」と、次代としての「天香語山命」となるイメージなのだと思います。

 九世孫の乙彦命は亦の名に、孝元天皇の和風諡号の「彦國玖琉命」を伝えます。その前代の天皇となると孝霊天皇となりますが、八世孫の日本得魂命は、その名で日本の魂を得ると、天皇号に等しい名であるのは、それを暗示しているのだと思われます。

日本得魂命(八世孫:孝霊天皇:彦火明命)―乙彦命(九世孫:孝元天皇:天火明命)
                    玉勝山代根子命(九世孫:天香語山命)

 以前にも書きましたが『海部氏勘注系図』には玉勝山代根子命の分注に、「一云、彦國忍人命」とあります。この彦国忍人命は、この系統が和珥氏に繋がるため、孝昭天皇の皇子という天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)のことと思われます。「一云、彦國忍人命」の意味を考えると、『海部氏勘注系図』の作者自体は他箇所で、七世孫世代が彦國忍人命だと記しており、九世孫世代とは二世代分が異なるため、「一云」とは、その子孫を表しているのではと思われます。

彦國忍人命(七世孫)―○―玉勝山代根子命(九世孫:「一云、彦國忍人命」)
孝安天皇(七世孫)―孝霊天皇(八世孫)―孝元天皇(九世孫)

 十世孫世代をみると、火明命の名を持つ人物が、複数人現れます。乙彦命の子の安波夜別命(あわやわけのみこと)の左分注には「天照火明命」、右には「天火明命」とあることから、乙彦命から安波夜別命が「火明命」を火継していると思われます。
 十世孫世代の系譜左に目を移すと、そこにも彦火明命の名が記されていることに気づきます。その彦火明命は「亦名 宇麻志眞治命、亦名 豊饒速日命」と二名が記されます。豊饒速日命と宇麻志眞治命(宇摩志麻治命)(うましまじのみこと)は共に物部氏の祖となりますから、この一族が、もう一方で「火明命」の火継を主張しているとなりそうで、この時点では、二人の人物が「火明命」の襲名を主張しているとなりそうです。

乙彦命(九世孫:火明命)―安波夜別命(十世孫:火明命
                                           彦火明命(十世孫: 宇麻志眞治命、豊饒速日命)

 この宇摩志麻治命の一族が、「火明命」の火継を主張するとは、本宗家になることの宣言と想像できるのではと思われます。「火明命」の直系の子息でない場合は、その襲名には「火明命」の一族から姫を娶り、婿入りする方法が考えられます。宇摩志麻治命の彦火明命の主張は、これが該当すると思われます。

 九世孫の玉勝山代根子命の次世代の十世孫には、伊岐志饒穂命(いきしにぎほ/にほのみこと)が記されます。これは饒速日命の別名の胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)と類音し、同一と思われますので、これが正しいなら十世孫で玉勝山代根子命の家に饒速日命の一族が入婿しているとなりそうです。

玉勝山代根子命(九世孫)―姫
              ||
             伊岐志饒穂命(十世孫:彦火明命と饒速日命を襲名)

2・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と瓊々杵尊のモデル

 『海部氏勘注系図』では、膽杵磯丹杵穂命は日本得魂命の姉の子の押穂耳命(おしほみみのみこと)の子とあります。この押穂耳命は『日本書紀』が記すところの正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と同一人物でしょう。

押穂耳命(九世孫)―膽杵磯丹杵穂命(十世孫)
玉勝山代根子命(九世孫)―伊岐志饒穂命(十世孫)

 二つを並べると理解が容易になりますが、膽杵磯丹杵穂命と伊岐志饒穂命は世代が揃い同一人物と思われますので、天忍穂耳尊の実態の一人は、「正哉吾勝々速日」の亦の名を持つ、玉勝山代根子命といえそうです。また、「正哉吾勝々速日」を除いた天忍穂耳尊だけに注目をすると、天族(海人族)の「天」、大和を思わせる「忍」、稲穂の「穂」、最後の「耳」は称号かと思われ、「天忍穂耳」を意訳すれば、大和王といえそうです。大和王である孝元天皇こと、九世孫の乙彦命の分注にもある、「亦云、吾勝々速日」は、もう一人の天忍穂耳尊の人格の意味で表記されているのかもしれません。

 天忍穂耳尊は、その名の前半で「正哉吾勝々速日」と、何度も「勝ち」を強調しています。これは玉勝山代根子命の一族にも内包される字であることは先述しました。これが誰に対する勝利宣言かと想像すれば、孝元天皇(乙彦命)側へとなるのでしょう。

孝元天皇(九世孫)―安波夜別命(十世孫)
玉勝山代根子命(九世孫)―伊岐志饒穂命(十世孫)
綏靖天皇(九世孫)―安寧天皇(十世孫)

 天忍穂耳尊の妻は、「記紀」では栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)となります。また、饒速日命は、『亀井家譜』によると父が天忍穂耳尊で、母は萬幡千々姫(よろずはたちぢひめ)となります。これは「記紀」の天忍穂耳尊の配偶者と同一を表しているはずですが、『日本書紀』の栲幡千千姫命の父は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)ですが、『亀井家譜』の萬幡千々姫の父は武乳速命(たけちはやのみこと)と異なります。武乳速命は長髄彦尊と伝わりますので、萬幡千々姫は、その娘の三炊屋媛(みかしきやひめ)と重なるのかもしれません。

天忍穂耳尊―饒速日命、伊岐志饒穂命
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栲幡千千姫命(父、高皇産霊尊)、萬幡千々姫(父、武乳速命)

 愛媛県松山市の天徳寺(愛媛県松山市御幸)に所蔵されている『伊予国造家、越智姓河野氏系譜』(いよくこくぞうけ、おちせいこうのしけいふ)では、天香語山命が御炊屋媛の配偶者と伝えますが、同様に「天香語山命」の亦の名をもつ玉勝山代根子命が天忍穂耳尊と重なる存在であることからから、これはただしい伝えといえるかもしれません。

 天忍穂耳尊の子の一人は瓊々杵尊(ににぎのみこと)となります。『海部氏勘注系図』では、押穂耳命の子は膽杵磯丹杵穂命(伊岐志饒穂命)と伝わりましたが、その亦の名は、「彦火瓊々杵命」とも伝わります。神話の神々を実際の人物に当てはめるのは、本来は筋違いで困難な作業ですが、瓊々杵尊の投影の一人は伊岐志饒穂命といえそうです。

 これと同様の祭祀を確認できる神社が、香取神宮の境内社の天降神社(あまくだりじんじゃ)で、『香取群書集成』によると、その祭神は伊岐志邇保命、或いは瓊々杵尊だといいます。因みに、『海部氏勘注系図』上で伊岐志邇保命の孫が鹿島神宮祭神の建甕槌神こと、建飯片隅命ですので神話での出雲の国譲りや、東国へ征伐の一つはこの世代(三世紀半ばから、四世紀前半のまでの間頃)で行われたことと思われます。これは『日本書紀』神代下には、武甕槌神と、物部氏を神話化した経津主神が行なったこととして描かれています。

 神話において天照大神の「孫」の瓊々杵尊が、日向の襲の高千穂峯に天降ったことを天孫降臨といいますが、実際はこの一族の近畿から日向国への移動が、そのモデルとなったのでしょう。

天忍穂耳尊―伊岐志饒穂命(瓊々杵尊)―阿多根命―建飯片隅命(建甕槌神: 出雲の国譲り)

(20241013)

続きはこちら「天津日子根命のモデルと山代国造の祖。その子孫の神武天皇と天村雲命。」

参考文献
『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社
『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社


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