祝園神社と湧出宮の居籠祭。武埴安彦命と天照大神の荒御魂。瀬織津姫命秘抄五。


1・武埴安彦命と吾田姫命と、その兵士への鎮魂

 大己貴神の后神は天照大神の荒御魂で、これは『倭姫命世記』によれば、瀬織津姫命とされ、二神は「宮中」で一対で祭られていました。この天照大神の荒御魂を奉斎する神社に、南山城の木津川沿いに鎮座する、和伎坐天乃夫支売神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)(京都府木津川市山城町平尾里屋敷)があります。

 同社は通称を、湧出宮(わきでのみや)といい、「居籠祭(いごもりまつり)」の神事を現在に伝えます。その起源は伝承によると、この地で敗れた武埴安彦命(たけはにやすのみこと)の鎮魂にあるといいます。

 『日本書紀』には、武埴安彦命と妻の吾田姫(あたひめ)命は共に、崇神天皇に対して反乱を起こしたと記されます。妻の吾田姫命は、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)に大坂で全軍を打ち破られ殺され、その兵士は残らず斬り捨てられ、武埴安彦命も、和珥臣の遠祖の彦国葺(ひこくにぶく)命に殺され、配下の兵士の半分が討たれたといいます。武埴安彦命の軍勢は、その将が討たれた後に総崩れになり逃げはじめ、その時に起こった事柄の幾つかが、同地の地名譚になったと『日本書紀』は記します。和伎坐天乃夫支売神社の「和伎」も、その内の一つとなります。

即座に追撃して河の北で撃破し、首を斬り落とされた兵士の数は半ばを超えた。屍体が多く溢れていた。そこで、その所を名づけて、羽振苑というのである。また、その兵士が怖れ逃げて、屎が褌から漏れた。そこで甲を脱いで逃げ去ろうとした。しかし、逃げることができないと知って、叩頭(頭を地につけて謝罪)して、「我君」と言った。そこで、時の人は、その甲を脱いだ所を名づけて、伽和羅といった。褌から屎が落ちた所を屎褌という。いま、樟葉(大阪府枚方市楠葉)というのは、それが訛ったものである。また叩頭した所を名づけて、我君(京都府木津川市山城町平尾の涌森)という〔叩頭、これを迺務という〕。

(『日本書紀』) 

 「和伎」は、この武埴安彦命の兵士が、頭を地につけて謝罪した際に発した、「我君(あぎ、わき)」が、その由来だといいます。「屎が褌から漏れ」ながら逃げ惑い、軍勢の半数以上が亡くなったとある、「書記」の記載を信じるならば、この戦いで、多くの命が失われたとなります。

 湧出宮には現在でも居籠祭という神事が伝わり、その起源は武埴安彦命と、その兵士の鎮魂にあったといいます。非業の最期を遂げた武埴安彦命と、多くの戦死者の霊が祟り、湧出宮の辺りに悪疫が大流行して、人々を悩ませたといい、それを慰撫するために村人達は、みこもって悪疫退散の祈祷をしたところ、その悪霊は鎮まったと伝わります。

 この鎮魂神事の居籠祭は、木津川の対岸にある、祝園神社(ほうそのじんじゃ)(京都府相楽郡精華町祝園柞ノ森)でも行われています。神社名の祝園は現在、「ほうその」と読みますが、『和名類聚抄』に同地は、「波布曽乃」とあることから元は、「はふその」であったとなります。その「はふその」は、先程の『日本書紀』の武埴安彦命の兵士の屍体が多く溢れていた故に付いた「羽振苑(はふりその)」が、その由来だといいます。

 祝園神社は現在、健御雷命、経津主命、天児屋根命の三神を主祭神として祭ります。社伝では、武埴安彦命の魂が同地に留まり祟り、人民を悩ませたため、称徳天皇の神護景雲四年正月に、これを鎮めるために春日神を勧請し、奉斎したのが、その起こりだと伝えます。
 武埴安彦命の魂と、その兵士の霊を慰撫する居籠祭は、それを鎮めることで、戦場となり荒れた田畑の復興と、五穀の実りを祈念する農耕の儀式でもあります。これは柞ノ森(ははそのもり)の祝園神社と、棚倉の湧出宮で行われ、それぞれは「神迎え」と、「座の饗応」に重点が置かれているといいます(1)。神事はまた、昔日は各家では一切の物音を慎み、居籠るため「音無しの祭」とも呼ばれています。

2・祝園神社と湧出宮の居籠祭

 祝園神社の居籠祭は毎年、正月初申(さる)の日から三日間行われます。それぞれの行事は、一日目の申の日は、「風呂井の儀」、二日目の酉(とり)の日は「御田の儀」、三日目の戌(いぬ)の日は「綱曳(つなひき)の儀」となります。

 一日目は、夜になると神主は神社門前横にある「風呂井」へ赴き、一子相伝の秘密の祝詞を奏し、玉串を持ち帰って神殿に納めます。二日目の「御田の儀」は、祭場である「幸の森」で、祝詞を奏上し、農作業の所作を行い、今年の豊作を祈願を行います。神社から祭場までは、道明かりであり、邪気祓いとなる大松明(おおたいまつ)を担ぎながら向かいます。
 三日目の「綱曳の儀」は、青竹や藁で製作された綱を三回引き合う行事で、旧祝園村の住人で陣取りが行われ、勝った方は、その年は豊作になり、幸いがもたらされるといいます。
 曳き綱は、藁束を竹皮で巻き、ドーナツ状に整えた輪に、火で炙り曲げた青竹左右三本ずつ取り付けたものとなります。これは武埴安彦命の首を模したものと伝承されています。
 最後は、武埴安彦命の首との伝説がある、曳き綱を神社の南方にある「いずもり」まで引きずって行き、それに点火します。この「いずもり」の地は、武埴安彦命が斬殺された地だと伝わり、現在でも「武埴安彦破斬旧跡」の石碑が建っています。

 木津川を挟んで対岸の棚倉の湧出宮でも居籠祭は行われます。祭りは、かつて新暦の二月十五日から三日間行われましたが、現在は二日間に短縮して行われます。

 一日目には「門(かど)の儀」と「大松明の儀」が、二日目には「饗応(あえ)の儀」と「御田の式」が斎行されます。こちらも、その年の豊作を祝う予祝儀礼となります。

 初日の大松明を燃やす、「松明の儀」では、かつては、たいまつを引きずりまわしましたが、今ではこれは行わず、最後に神職が祝詞をあげます。伝承では、戦いで敗れた、武埴安彦命は斬首され首を切られましたが、首は祝園に飛び、胴体は棚倉に残ったといいます。先程の祝園神社の竹輪は武埴安彦命の首を形どった物、湧出宮の大松明は胴体を形どったものと伝わり、かつては、松明をごろごろと回しました。

 以上、居籠祭の概略をみてきました。祝園神社は「神迎え」、湧出宮は「座の饗応」に重点が置かれた祭でしたが、これは武埴安彦命とその兵士への鎮魂儀式だと思われます。これらを鎮めることで初めて、農耕の予祝となるのでしょう。

 『日本書紀』では武埴安彦命はこの地で敗れ、伝説では「いずもり」で斬首されその首は、祝園に飛び、胴体は棚倉に残ったといいます(2)。この伝説からも棚倉の湧出宮こと和伎坐天乃夫支売神社と、祝園神社は一体といえる関係と思われます。

 祝園神社で鎮められているのは武埴安彦命の霊であり、和伎坐天乃夫支売神社は、その名から女神となりますから、両社が一対の神を祭っていると捉えるのは自然でしょう。

3・武埴安彦命と長髄彦尊

 『日本書紀』によれば祝園の地名由来は、武埴安彦命とその兵士のいきさつに基づきましたが、これとは異なる伝承が『雍州府志』に残ります。そこには、祝園神社の鎮座地である柞ノ森(ははそのもり)の由来は、武埴安彦命ではなく、長髄彦尊(原文は長髄彦)の故事からだと記されます。

 同書は、神武天皇に討たれた長髄彦尊が、褌に屎を残して退いたため、「褌屎(はかまくそ)」というと記し、また、祟る悪鬼は長髄彦尊で、祭りで使用する竹輪は、その首だとの伝承も残します。

 両者の違いを纏めると、討たれた人物は、武埴安彦命と長髄彦尊、それを討ったのは彦国葺命と神武天皇となります。その年代は武埴安彦命は孝元天皇の子世代であり、長髄彦尊は神武天皇世代となります。

 『日本書紀』では長髄彦尊は、神武天皇に討たれる人物として描かれます。『本荘家譜』によると、長髄彦尊の投影の一人は飛鳥大神こと、事代主神であり、これは大己貴神の御子です。大己貴神は「孝」が接頭する王朝の天皇家の一族を神話で仮託した神ですから、要は長髄彦尊とは、その一族が神武天皇に討伐対象となった時の総称で、その隠語と推察されます。

 『伊勢国風土記逸文』では、長髄彦尊と同時に、伊勢津命も神武天皇から討伐される対象として描かれますが、これはどちらも大己貴神、またはその子となるのは説明しました。また、伊勢津彦命の子である大年神は大己貴神や、その御子神として重なるのも検討済みです。

大己貴神―長髄彦尊(事代主神)
大己貴神―伊勢津彦命―大年神

 さて、祝園神社の祭神は現在、春日神三神なっており、その内には、健御雷命と経津主命がいます。祝園神社の由来の一説は、神武天皇による長髄彦尊の討伐にありましたが、その時に神武天皇が携えていたのは、武甕雷神の剣であり、これは韴霊(ふつのみたま)といいます(『日本書紀』)。この韴霊と、祝園神社祭神の経津主命の「フツ」は通じますので、要するに現在の祭神は、長髄彦尊を討伐した側を祭っていることになります。

 この現在の祭神とは異なる説が、幾つかの文献には残り、それはどれも大年神の親族を祭る伝承です。その内の『神名帳考証』には、祭神は大年神と伊怒姫(いぬひめ)の子の曽富理神(そほりのかみ)だとあり、これは大国魂神や、御年神と兄弟神となります。大年神は、大己貴神やその御子の投影となりますから、これは先ほどとは逆に、討伐された側の神を祭っているとなるのでしょう。

4・天乃夫岐賣命と多岐都比売命

 湧出宮は、「式内社」の和伎坐天乃夫支売神社の通称となります。こちらは神社名の「天乃夫支売」からも分かるように、女神を祭っています。同社の由来を記した書、『和支坐天乃夫支賣大明神源縁録(わきにますあめのふきめだいみょうじんげんえんろく)』(以下、「源縁録」)には、祭神は天照大神の荒御魂で、伊勢国度会郡五十鈴川の側の、舟ヶ原郷岩部之里から勧請したと有ります。
 舟ヶ原は『特選神名牒』に、「百船度會縣佐古久志呂宇遲の五十鈴の川澄なる舟ヶ原岩部の里に大宮柱立て」とあり、これは『倭姫命世記』で、天照大神が内宮に鎮まった際に発した、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の言葉と類似することから、これは現在の内宮の地だと推定されます。

 このことから湧出宮の天照大神の荒御魂は、伊勢神宮から勧請されたと「源縁録」は述べていることになります。同書にはその後に、伊勢から田凝比賣と市杵嶋比賣を招請したとあります。これは宗像三女神の内の二神ですから、天乃夫岐賣命は残りの一柱の多岐都比売命が該当するとなるのでしょう。この多岐都比売命は、天照大神の荒御魂であり、大己貴神の后神で、それは大年神の妻ともなります

 祝園神社の元の祭神は大年神の一族と思われ、湧出宮はそれと一体といえる関係でした。その祭神である天照大神の荒御魂は、大年神の后神であるので、二社の祭神は夫婦関係とみるのが自然でしょう。

大年神(祝園神社)
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天照大神荒御魂(湧出宮、多岐都比売命)

5・武埴安彦命と長髄彦尊の世代

 祝園神社の伝説では、討伐された対象は長髄彦尊でもあり、これは大己貴神ともいえます。伝承では長髄彦尊は神武天皇に、もう一方の武埴安彦命は彦国葺命に討たれていました。「記紀」をベースに考えると、初代と十代の天皇世代と、大きく離れた世代にみえますが、実はこれは同時代と推定されます。

 振返りかえると、神武天皇自体は架空の存在であり、「記紀」が記している神武天皇の事績は、異なる人物が行った事績の集合体となりました(3)。概略を記すと下記になります。

※カッコ内は「記紀」の天皇代数。

 大凡、第二代綏靖天皇と八代の孝元天皇が同世代となり、また、「記紀」で所謂神武東征として記される珍彦命の世代は、崇神天皇世代となること等から、著者は神武天皇世代は天皇世代で、第二から十代までが含まれていると想定しています(4)。これに付け加えると、神代の世界として描かれる武甕槌神を投影した一人は、開化天皇世代となります。

 崇神天皇紀は、第七代の孝霊天皇の息女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)や、第九代、開化天皇の孫の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)が記されることから、大凡、「記紀」の天皇世代で第八から十一代が記されていると思われます。これを纏めると、大凡、崇神天皇紀は第二から十一代の天皇世代の出来事が記されているとなります。

 「記紀」は孝元天皇を第八代に置きますが、実際の孝元天皇の一人は、二代綏靖天皇と同世代となります。武埴安彦命は、孝元天皇と河内の青玉繋(あおたまかけ)の女の埴安媛(はにやすひめ)の皇子です。その兄弟という、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、『住吉大社神代記』(すみよしたいしゃじんだいき)では開化天皇の皇子として記されることから、孝元天皇の皇子世代は、上記に当てはめると、天皇世代で第三から十代が該当するとなります。これは所謂、神武天皇世代とも重なりますので、それに討たれた長髄彦尊の一人もそこに含まれるとなります。

 これらから、孝元天皇の皇子という、武埴安彦命と、長髄彦尊は祝園神社では、同一の伝承を持ちましたが、それは矛盾する物ではないとなります。『日本書紀』に、武埴安彦命が、軍を引き連れてきた彦国葺命に「どうしておまえは軍を起こして来たのだ」と、部下に対するように発言する描写があります。これは、大王家側の武埴安彦命からみると当然の心理といえるのではないでしょうか。

6・天香山と武埴安彦命

 武埴安彦命の名にも含まれる、「武」は主に、将軍などで活躍した人物に接頭する、いわば称号と捉えられます。武埴安彦命からこの名称と、日の御子の意の「彦」を除くと、個人を表す「埴安」が残ります。この「埴安」と類似する神に、各地で土の神として祭られる、波迩夜湏毗古(はにやすひこ)神、波迩夜湏毗売(はにやすひめ)神がいます。二神は『古事記』で、伊耶那美命の「屎」から、成った神として記されますが、この「屎」は、武埴安彦命の伝承の一つのキーワードであったことには、留意が必要です。

 武埴安彦命に内包される、「埴安」は『日本書紀』の神武天皇紀に記される単語です。神武天皇は、「天香山の埴土(はにつち)をとって、八十平瓮(やそひらか)をつくり」諸神を祭ったことで、天下を平定できたと、『日本書紀』は記します。その「埴土(はにつち)」をとった場所が「埴安」だと、同書はいいますので、「埴安」とは天香山となります。これを武埴安彦命の名に当てはめると、武天香山彦命と言い換えられます。

 神武天皇は「埴土」を取るのに、こっそりと天香山に部下を向かわせたことから、この聖山は、神武天皇の山ではないと分かります。この大和三山の一つの天香山は、神武天皇より前に同地にいた大王家の聖山であり、これは所謂、海部氏、尾張氏の聖山と想定されます(5)。

 両家の系譜を記した『海部氏勘注系図』と、『先代旧事本紀』「天孫本紀」には、火明命の子として、天香山の名を冠した、天香語山命(あめのかごやまのみこと)が記されます。これは孝昭天皇を始めとした「孝」が接頭する天皇家の御祖神であり、その始祖の彦火明命は天照大神のプロトタイプになります。この太陽神を奉斎するのが、孝昭天皇から続く天皇家ですが、その別称は大己貴神や、その皇子の事代主神となります。

彦火明命―天香語山命―天村雲命―孝昭天皇(三輪山で天照大神を奉斎する)
※神代三代の後に人皇が続く

 先ほどの武天香山彦命こと、武埴安彦命は神武天皇、または和珥臣の遠祖の彦国葺命に滅ぼされます。和珥氏は、孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)を祖とします。

 孝元天皇と世代を同じくする、玉勝山背根子命(たまかつやましろねこのみこと)も、『海部氏勘注系図』に「一云、彦國押人命」とあることから、天足彦国押人命の子孫と思われます。孝元天皇の皇子の武埴安彦命は、この系統の子孫と争い敗れ、その姿は長髄彦尊としても伝えられたと推察されます。イメージ化したのが下記になります。

孝安天皇―孝霊天皇―孝元天皇―武埴安彦命
天足彦国押人命―○―玉勝山背根子命―彦国葺命

 倭国大乱を端緒とした騒乱の時代は、「空白の四世紀」まで続くと思われます。この期間の「記紀」の内容、例えば神武天皇紀を開けば、そこには多くの戦いが記されます。

 『古事記』はこれを勝者の言葉で、「言向け平和(ことむけやわ)」したと表現しますが、この言葉が持つ柔和さとは裏腹に、これは武埴安彦命や、その兵士の半分が亡くなったという、激しく悲しい記録などに基づいていることを忘れてはいけません。そのような戦いの歴史を、現代人が正しく認識しようとする努力こそ、敗れた者への本当の鎮魂になると著者は考えています。(20240727)


(1)    『酒雑事記』 青山茂 芸艸堂 1976
(2)    城南 湧出宮 由緒書
(3)、(4) 『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社
(5) 『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社

引用文献
『日本書紀』監訳:井上 光貞 訳者:川副 武胤 佐伯 有清 中央公論新社

参考文献
『京都民俗志』 井上頼寿 岡書院
『歴史と地理 24(2)』 星野書店 星野書店

参考サイト
(1)    奈良大和路~悠~遊~ 祝園神社 居籠祭 2024 (http://pinbokejun.blog93.fc2.com/blog-entry-1709.html)
(2)    奈良大和路~悠~遊~ 城南 涌出宮 居籠祭/門の儀・大松明の儀 2024(http://pinbokejun.blog93.fc2.com/blog-entry-1719.html)


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