海部氏勘注系図の解説8 磐衝別命の世代。山背大国不遅と綺戸辺。


 開化天皇朝と垂仁天皇朝が『海部氏勘注系図』の十二世孫世代で重なり二朝並立しているのをみて来ました。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命、珍彦)

垂仁天皇(十二世孫)    ―景行天皇(十三世孫)

 『上宮記逸文』には垂仁天皇を祖とする継体天皇の母の振媛(ふりひめ)へと続く七代に渡る系譜も記されています。垂仁天皇の和風諡号は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)といいますが、系譜はそれと同様と思われる伊久牟尼利比古大王から、その皇子磐衝別命(いわつくわけのみこと)へと続きます。

垂仁天皇(十二世孫)―磐衝別命(十三世孫)

 再三ですが垂仁天皇は新羅の国の王子、天日槍命の一族を投影した者です。この天日槍命の来日は『日本書紀』によると七つの宝を持って、まずは播磨国の宍粟邑(しさわのむら)に碇泊したといいます。それを知った天皇から宍粟邑と淡路島の出浅邑(いでさのむら)を授けると使いから連絡が有りましたが、自ら住む場所を探したいとそれを謹み断りました。

 その後のルートは菟道河を遡り、北へと向かい近江国吾名邑(おうみのくにあなのむら)(滋賀県米原市箕浦付近)に入り、さらに若狭国を経て、西へ向かい但馬国に入ったと『書紀』は記します。

 垂仁天皇の和風諡号の活目入彦五十狭茅天皇の入彦ですが、『但馬故事記』によるとこれは「入り来る彦」の意味とあり、これを垂仁天皇に当てはめると新羅国から活目に来た人となります。活目が何処かを考える手がかりが『先代旧事本紀』天孫本紀にあります。

 饒速日尊の子の宇摩志麻治命が娶った姫が、この「活目」と同じ字の活目邑(いくめむら)の五十呉桃(いくるみ)の娘、師長姫(しながひめ)で有ると記されています。天孫本紀はまた、命の父の饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶ったと述べますが、長髄彦の勢力地は生駒山です。『伊勢国風土記逸文』にも長髓彦は「胆駒長髄」と記されており、長髓彦は生駒山におり饒速日尊は生駒山の姫を娶ったとなります。

 饒速日尊が天降った地と言う河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)は、生駒山系の磐船神社(大阪府交野市私市)の側です。饒速日尊の子の宇摩志麻治命が娶った活目邑の師長姫も、「いくめ」と、「イコマ」の音が近いですから、どうやら同じ地の名でありそうです。

 これを裏付けるのが天孫本紀と重なる系譜を伝える因幡の『伊福部臣古志系図』(いふくべのおみこしけいず)です。宇摩志麻治命の子の彦湯支命(ひこゆきのみこと)の条に、母は伊古麻村(いこまむら)の五十里見命(いそりみのみこと)の女、河長媛(かわながひめ)と注記されており、彦湯支命の母は宇摩志麻治命の妻ですので、師長姫の「活目」と河長媛の「伊古麻」は出身地で繋がり、活目邑は生駒村となります。

 「活目」とは「生駒」でありこれを垂仁天皇の和風諡号に当てはめれば活目入彦五十狭茅天皇は、「生駒」にやって来た五十狭茅天皇となります。

 垂仁天皇が天日槍命の投影だと置くと、播磨国と菟道河のルートの間には、生駒山から大和国の纒向珠城宮へと推測出来そうです。その次代の景行天皇の皇居も纒向日代宮と二代に渡り宮を置きますが、『日本書紀』によると何故か最後は志賀(滋賀県大津市)の高穴穂宮(大津市穴太)で亡くなったといいます。

 景行天皇と世代で揃う磐衝別命は琵琶湖湖西に鎮座する水尾神社(みおじんじゃ)の社伝によれば、この地にやって来て、最後は景行天皇と同様に近江の地で亡くなったと伝わります。また磐衝別命の後裔氏族は『新撰姓氏録』の「右京、皇別、羽咋公」が上がり、伝承地は羽咋神社(石川県羽咋市川原町)で祭られるなど能登半島まで、その勢力の残像をみるとこが出来ます。これら近江国やその北方の国々が、天日槍命のルートと重なるのは偶然ではないのでしょう。

 垂仁天皇と天日槍命のルートを重ねて合わせて再現すると下記になるのではと思われます。

新羅国→豊国→播磨国→生駒山→大和国→菟道河→近江国→若狭国→但馬国

 近江国に拠点を持った磐衝別命と祖先を同一とする一族に羽咋公がおり、『新撰姓氏録』には「右京皇別、羽咋公、同天皇皇子磐衝別命之後也。亦名、神櫛別命なり。続日本紀に合えり」とあり磐衝別命は神櫛別命(かみくしわけみこと)と同一人物だといいます。

 『新撰姓氏録』はまた神櫛別命は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのみこと)の皇子の五十香彦命(いかひこのみこと)の亦の名だともいいます。

「右京皇別、讃岐公、大足彦忍代垂仁別天皇皇子五十香彦命、亦名神櫛別命之後也続日本紀合」 

 今のところを纏めると磐衝別命は神櫛別命であり五十香彦命となりますが、磐衝別命は垂仁天皇の皇子で、五十香彦命は景行天皇の皇子と一代の相違が生まれます。実は垂仁天皇の皇子にはこの五十香彦命と思われる五十日帯彦命(いかたらしひこのみこと)という皇子がおり、母は山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)といいます。

 五十香彦命の別名という、磐衝別命の母は山背大国不遅(やましろのおおくにのふち)の娘の綺戸辺(かにはたとべ)といいます。同一人物と伝わる五十香彦命と思われる、五十日帯彦命の母の苅幡戸辺と磐衝別命の母の綺戸辺を『日本書紀』はわざわざ別人と記しますが、これはどうも疑わしいです。

磐衝別命=神櫛別命=五十香彦命(垂仁天皇か景行天皇の子で母は綺戸辺)

五十日帯彦命(垂仁天皇の子で母は苅幡戸辺)

 これを見ると磐衝別命と五十日帯彦命は同一人物で母も同じと疑いたくなります。結論は同一人物ではないとなりますが話を進めましょう。

 磐衝別命の母、綺戸辺の婚姻譚は『日本書紀』に載り、垂仁天皇三十四年の春に天皇は山背に行幸されたから場面から始まります。垂仁天皇は側近から山背大国不遅(やましろのおおくにのふち)の娘の綺戸辺は美人で評判らしいと聞いた天皇は迎えに行きくことにしました。また垂仁天皇はその途中で瑞兆が現われるのを期待すると、行宮に至る途中で河の中から大亀が出て来ました。天皇が矛を挙げて亀を刺すとたちまち石になってしまったといいます。その後に綺戸辺は後宮に入ったと話は閉じられます。

 ここで押さえるべき点は大「亀」と「綺戸辺」です。この話は垂仁天皇が山城国で「矛を挙げて亀を刺」し、その娘を嫁取りするとは征服していることの比喩でしょう。「亀」で表される人物といえば「亀」に乗って神武天皇を案内した珍彦です。この「亀」が一方の開化天皇朝の象徴であるには既にみて来ました。

 「綺戸辺」はその名に内包される「カニ」が姫を考える上での鍵となります。綺戸辺の「カニ」を考える上で参考になるのが、尾張国の式内社の和爾良神社(かにらじんじゃ)です。愛知県には幾つかの和爾良神社がありますが、和爾良(わにら)と書いて「カニラ」と読みます。この和爾良神社はワニ氏一族を祭神としていますので、ここから綺戸辺の「カニ」とは和邇氏の「ワニ」だと推測可能です。

 綺戸辺の父と言う山背大国不遅の「淵」を考える手掛かりは垂仁天皇の妻となったと言う丹波の四女王の一人の円野比売命(まとのひめ)を述べた場面に有ります(『古事記』)。円野比売命は容姿がとても醜いという理由で故郷の家もとに送り返され、姫はそれを恥じて山城国の相楽まで来た時に木の枝に首を吊って死のうとします。その後、乙訓に着いた時に、とてもけわしい淵に落ちて死んだといいます。また後の乙訓はその由来で、堕国と名付けられ、後の弟国となったといいます。

 記事から「山城国の淵」とは乙訓のとてもけわしい淵と読み取れますので、綺戸辺の父の山背大国不遅とはその地の有力者なのでしょう。

 ここから考えられる山背大国不遅の候補者は山城南部に勢力を持つ日子坐王の子の山城大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の一族です。大筒木真若王の子はワニ(カニ)氏を名に含む迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)がいることもこの蓋然性を高めます。大筒木真若王とは丹波道主命のことなのですが、これは別に説明します。

 磐衝別命の母の綺戸辺(『古事記』弟苅羽田刀弁)は、和邇氏の女子という意味で個人名ではないでしょう。『先代旧事本紀』天皇本紀では磐衝別命の母の名を真砥野媛(まとのひめ)と伝えます。『古事記』よれば真砥野媛とは丹波道主命の娘となっていますが、丹波道主命は「勘注系図」世代で十四世孫に当たりますので、十三世孫世代の磐衝別命の母として世代が合いません。ここから結論出来るのは『日本書紀』が主張する垂仁天皇妃という、丹波道主命の五人の娘とは、世代もその父も異なる人物達を抽象的に丹波道主命の娘として纏めた人物ということです。

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