海部氏勘注系図の解説6 日子坐王と大田々根子命の世代と八咫烏の一族。


 『海部氏勘注系図』の十四世孫の本宗上には川上眞稚命(かわかみのまわかのみこと)が記されます。この命の分注には「一云 道主命」、「彦田田須命」と有ります。これは丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)、それの別名の旦波比古多多須美知宇斯王(たにはのひこたたすみちうしのみこ)と重なりますので、川上眞稚命がそれに該当すると思われます。また「勘注系図」には川上眞稚命は五十瓊敷入彦命之御子だとも記されます。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)

 丹波道主命は『古事記』の系譜によると、開化天皇の皇子の日子坐王(ひこいますのみこ)の子だといいます。では同一人物だと思われる川上眞稚命は五十瓊敷入彦命之御子と「勘注系図」は伝えまししたが、五十瓊敷入彦命が川上眞稚命の実父になるのでしょうか。結論から記せばこれは義父であろうと想定されます。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―日子坐王(十三世孫)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)

 「勘注系図」の十四世孫の川上眞稚命が丹波道主命なら、その父の日子坐王は十三世孫に当たるとなります。十三世孫の大田田命、大田命の分注には「亦云、彦坐王」と記されこの命が、該当すると「勘注系図」は示します。

 大田田命の親世代に当たる十二世孫には建飯片隅命(たけいいかたすのみこと)が記され、系図の線の繋がりから、大田田命はこの命の子だと思われます。この建飯片隅命は『三輪高宮家系図』に建飯賀田須命(たけいいかたすのみこと)として載り、その子が大田々根子命(おおたたねこのみこと)となり、「勘注系図」と揃いますので大田田命とは大田々根子命であり、これが彦坐王の一人だと分かります。

建飯片隅命(十二世孫: 建飯賀田須命)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)

 『三輪高宮家系図』では建飯賀田須命の「一名」として建甕槌命を分注に付与します。建甕槌命は神話の世界で東西を征服に奔走する姿で描かれる神ですが、そのモデルの一人がこの命のようです。その活躍を形容すれば「日本」中を征討した将軍となります。

 「勘注系図」の建飯片隅命をみるとこれと同様のことが記されているのに気づきます。建飯片隅命が記される十二世孫には「一云、倭建命」、「亦云、倭建命」とこの世代或いは建飯片隅命がヤマトタケル尊(倭建命)の一人だと示しています。

 日本武尊とは東西を征服に奔走した事績から、こちらも「日本」中を征討した将軍と言える称号で、例えれば後世の称号で置き換えれば征夷大将軍といえる物です。つまりは普通名詞なので、この称号を名乗った(または付与された)人物は複数存在するとなりますが、その一人が建飯片隅命となるのでしょう。

玉勝山背根子命(九世孫)―伊岐志饒穂命(十世孫)―阿多根命(十一世孫)―建飯片隅命(十二世孫: 倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)

 「勘注系図」の建飯片隅命までの系譜は九世孫の玉勝山背根子命(たまかつやましろねこのみこと)から始まり伊岐志饒穂命(いきしにぎほのみこと)、阿多根命(あたねのみこと)、建飯片隅命と続きます。その子が大田々根子命です。玉勝山背根子命、その子の阿多根命は山城国造ですから、この一族は淀川水系から河内湾、更に木津川を抑えていると想像できます。

 『日本書紀』は大田々根子命が大物主神を祭る神主として召集されたと述べます。「勘注系図」によるとその先祖の伊岐志饒穂命は饒速日尊の別名ですので、その子孫が祭祀を勤めているとなります。三輪山は大和国に有りますから、これは倭に宿っている(宿禰)ともいえます。これは「勘注系図」の十三世孫に倭宿禰命を記す、その暗示といえそうです。

 日子坐王の子の川上眞稚命は丹波道主命であり五十瓊敷入彦命の御子でした。丹波道主命の妃は丹波の河上之摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)であると『古事記』は伝えます。

 五十瓊敷入彦命の御子には実父と娘婿の二つの捉え方が有ります。娘婿だとすると河上之摩須郎女の父が五十瓊敷入彦命となりますが、命の宮は茅渟菟砥川上宮(ちぬのうとかわかみぐう)といい川上に深い由縁がある人物となります。

 川上造は物部氏の祖である伊香我色雄(いかがしこお)命を祖としますが、伊香我色雄命が崇神天皇と重なるのは拙著(『神武天皇と卑弥呼の時代』)で説明済みです。また「勘注系図」によれば五十瓊敷入彦命は川上部の祖だとも記します。これらを考慮すると丹波道主命の妃の河上之摩須郎女の「河上」と五十瓊敷入彦命は「川上」には相関性が有ると思われます。

建飯片隅命(十二世孫)―日子坐王(十三世孫)   ―川上眞稚命(十四世孫)
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開化天皇(十二世孫) ―五十瓊敷入彦命(十三世孫)―河上之摩須郎女(十四世孫)

 五十瓊敷入彦命は茅渟菟砥川上宮にて剣一千口を作り石上神宮に納めたいいます(『日本書紀』)。剣一千口を作るとは相当な鉄を扱っていると思われ、製鉄王をイメージさせます。

 この製鉄を思わせる人物に旦波の大県主、由碁理がいます。その名は湯(鉄を溶かした)を凝ると製鉄王を思わせ、また旦波の大領主だと『古事記』は伝えます。

 「勘注系図」はこの由碁理について、十四世孫の川上眞稚命は「由碁理之子」だと記します。川上眞稚命は五十瓊敷入彦命の御子でしたので二つの製鉄王は同一となります。これを信じるなら開化天皇妃という由碁理の子の竹野比売はこの世代ではないとなります。

 竹野比売の子がこれも湯(鉄)を産すと、製鉄王を暗示させる比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)になります。「勘注系図」では十三世孫の五十瓊敷入彦命と想定される志理都彦命(崇神天皇)は「亦名、彦由産隅命」だと明かし、三つの製鉄王が同一人物で揃います。

開化天皇(十二世孫)―五十瓊敷入彦命(十三世孫: 五十瓊敷入彦命、由碁理、比古由牟須美命)―河上之摩須郎女(十四世孫)

 由碁理が一代か複数代かは置くとして、少なくともその一人の五十瓊敷入彦命は旦波の大県主、和泉国の茅渟菟砥川上宮に拠点を持ち、伊奈波神社、能登半島での伝承や、鹿児島県の伊邇色(いにしき)神社で祭られていることを考慮すると、やはり大王として相応しい勢力を誇っていたと想像できます。 

 先述の検討で五十瓊敷入彦命は敗れ亡くなっていましたが、これを娘婿として大王家(天皇)を継いだのが日子坐王の子の川上眞稚命(丹波道主命)なのでしょう。

 竹野比売の他に開化天皇の妃の候補を挙げるなら、八咫烏こと賀茂建角身命(かもたけつのみ)の娘の玉依日売(たまよりひめ)が該当するかと思います。

 「勘注系図」の十一世孫には「一云、建角身命」と有ります。建角身命は山城国が地盤で有ることから山城国造であり十一世孫と同世代で揃う、阿多根命がその候補者に該当か少なくとも近親者となりそうです。建角身命の娘世代の十二世孫には「一云、玉依姫」が記され、開化天皇と世代が揃い、その妃の候補となります。十三世孫にはその子という可茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は志理都彦命の「亦名 迦毛別雷命」として記され二人が同一人物と系図は示していると捉えられます。

阿多根命(十一世孫: 建角身命)―玉依姫(十二世孫)
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               開化天皇(十二世孫)―志理都彦命(十三世孫:可茂別雷命、迦毛別雷命)

 

 

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“海部氏勘注系図の解説6 日子坐王と大田々根子命の世代と八咫烏の一族。” への3件のフィードバック

  1. […]  これをみると丹波道主命と河上之摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)の婚姻と重なるのに気づきます。河上之摩須郎女の父と想定した五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこ)は崇神天皇、珍彦でしたので河上之摩須郎女と山下影日売は父が同一となります。 […]

  2. […]  息長氏は謎の一族と言われます。その発祥地は琵琶湖東岸の山津照神社(やまつてるじんじゃ)(滋賀県米原市能登瀬)が息長氏の氏神を祭り、その由来等から近江発祥も有力な候補として上がりますが、何にしてもこの一族は琵琶湖から淀川水系、そして奈良へと続く木津川の合流地点に勢力を張っていると窺われ、これは天津彦根命(玉勝山代根古命)の勢力圏と重なります。この勢力は摂津、河内につづき瀬戸内海の入口までを抑えているとなります。系譜の先頭を飾る倭建命は武甕槌神なのですが、その説明は本に譲るとして、その末裔がこの水系上に繁栄しているのは自然な姿と言えるでしょう。 […]

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