3 饒速日尊の王朝


『日本書紀』によると崇神天皇の母は伊香色謎命(いかがしこめ)といい、物部氏の遠祖の大綜麻杵(おおへそき)の女であると言います。
 ここでのポイントは、少なくとも崇神天皇の母系は物部氏だと言うことです。
 物部氏の出自の正当性を訴えた書物とも言われる書に『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)があります。
それによると物部氏は饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命(うましまじのみこと)から系譜を述べて、崇神天皇の母まで繋がります。

 饒速日尊―宇摩志麻治命―数代略―伊香色謎命―崇神天皇

 伊香色謎命の弟に伊香色雄命がいますが、崇神天皇の御世の祭祀は石上神宮にて「国家のために、また物部氏の氏神として、崇め祀り、鎮めとした。」と有るように、伊香色雄命と、その名に「謎」を含む姫、崇神天皇の母と言う、伊香色謎皇后が国家祭祀を一手に引き受けています。古代より天皇の職務とは祭司である事は言うまでも有りません。さて、この天皇に比肩する祭祀を一手に引き受けていた伊香色雄命の妻は、山代県主(あがたぬし)の祖、長溝(ながみぞ)の娘、真木姫(まきひめ)です。
この真木姫の名前に敬称である御をつけると御真木姫(ミマキヒメ)です。さて、伊香色雄命が祭祀を司ったと言う天皇である、崇神天皇の皇后は、御間城姫(ミマキヒメ)と言います。伊香色雄命の妻と同じ音を持つ姫です。二人の妻の名で円環を作れば、伊香色雄命=ミマキヒメ=崇神天皇となります。つまり、二人は同一人物として重なります。
 この物部氏の開祖である饒速日尊は、『日本書紀』が初代天皇と言う神武天皇紀によると神武天皇が、大和国へ東征をするより前にその地に君臨していたと言います。
 饒速日尊は伝承によると大和国の生駒山に降臨したと言い、その地に多くの伝承を残します。代表的な例が大阪府交野市に鎮座する磐船神社です。神社は高さ12m、幅12mの船形の巨岩「天磐船(あめのいわふね)」をご神体としますが、言い伝えによると饒速日命が天磐船に乗ってきて、現在磐船が鎮まる地に降臨したと言います。
 この地で饒速日命は在地の勢力であったと思われる人物である長髄彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶ります。また三炊屋媛は別名を鳥見屋媛(とみやひめ)と言います。
 生駒山の東山麓に鎮座する添御県坐神社(そうのみあがたにますじんじゃ)の祭神である武乳速之命(たけちはやのみこと)は、長髄彦と言われ地元では皇統だと伝承されています。
ここまでの時系列を単純化して記しますと左記になります。
 
 長髄彦(天皇)―饒速日尊(子孫が崇神天皇)―神武天皇

簡単に言いますと神武天皇より前に大和国には饒速日尊が、それよりも前に長髄彦が君臨していたとなり、それは天皇だったとなります。また、言うなれば崇神天皇とは物部氏の天皇の総称であり、『日本書紀』が記す饒速日尊は、崇神天皇の投影の一人でしょう。例えば倭迹迹日百襲姫命は、第七代孝霊天皇息女と言いますが、第十代崇神天皇紀にて事績が述べられます。これから推測できるのは、おおよそ第八代より崇神天皇のまでの時代が崇神天皇紀に記されていると捉えられる事です。

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