かつて盛んであった邪馬台国論は、主としてその所在地と、卑弥呼が誰であったのかをめぐって争われてきた論争でした。現在では、アカデミーの世界では一定の整理が進んでいますが、趣味やメディアの世界では、いまなお関心の高いテーマであり続けています。
しかし、邪馬台国論の意義は、単なる古代史上の比定問題にとどまるものではありません。むしろそれは、日本という国家が、どのような思想のもとに天皇制を構築してきたのかを問う、制度史・思想史上の重要な問題でもあると、著者は考えています。
日本は天皇を元首とする立憲君主国です。近代国家としての日本の出発点である大日本帝国憲法においても、天皇は「万世一系」の血統によって継承される存在と規定されました。この「万世一系」とは、初代神武天皇から男系で連なる血統を意味する概念であり、その思想的原型は、『日本書紀』をはじめとする国史編纂の過程で形成されたと見ることができます。
もし、邪馬台国の女王であった卑弥呼や台与が、現在の天皇家につながる血統ではなかったとするならば、邪馬台国論は、ここまで大きな思想的緊張を孕む問題にはならなかったでしょう。しかし、仮に彼女たちが、何らかの形で王統の核心に位置していたとするならば、事情は大きく異なってきます。
元伊勢籠神社の宮司であった海部穀定氏は、この点に着目し、『記紀』の編纂者たちは、「男系による万世一系」という理念を確立する過程で、重大な矛盾に直面したのではないかという見解を示しています。すなわち、女王である卑弥呼・台与の存在は、その理念と正面から衝突するため、国史の表舞台から姿を消すことになったのではないか、という仮説です。
この仮説に立つならば、卑弥呼・台与が国史に登場しない理由は、単なる史料欠如ではなく、意図的な編集の結果である可能性が考えられます。そして、そのために用いられた手法の一つが、上古天皇の寿命を引き延ばす、いわゆる「紀年の長大化」であった可能性があります。
実際、『日本書紀』では、初代神武天皇の即位年は紀元前660年とされていますが、これは考古学的年代観から見ると、著しく遡らせた設定であると言わざるを得ません。この年代操作は、第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后の時代を境に、より顕著になったと指摘されています。
神功皇后が実在の人物であったと仮定するならば、その活動時期は、一般には四世紀半ばから後半に位置づけられます。しかし、『日本書紀』の紀年では、神功皇后の摂政期間は、西暦201年から269年とされています。この年代は、「魏志倭人伝」が伝える邪馬台国の女王、卑弥呼および台与の活動時期と、きわめて近接しています。
ここに、一つの仮説が成り立ちます。すなわち、『日本書紀』の編纂者たちは、卑弥呼・台与という二人の女王の存在を直接記すことを避けるために、神功皇后という人物像を前面に押し出し、さらにその前後の天皇の寿命を引き延ばすことで、歴史の時間軸そのものを再構成したのではないか、という見方です。
もしこの見方が妥当であるならば、国史が卑弥呼・台与を秘した理由は、「男系による万世一系」という理念を守るためであったと理解できます。つまり、彼女たちが王統の重要な位置にいたことは、結果として、男系継承の連続性に疑問を投げかけるため、意図的に歴史の表舞台から退けられた可能性があるということになります。
言い換えれば、上古の王権は、必ずしも男系一系によってのみ継承されてきたのではなく、女系的要素を含みつつ形成されてきた可能性があると言えるでしょう。
この問題は、決して過去の学術論争にとどまるものではありません。今日において議論されている天皇家の継承問題とも、深く連動しています。邪馬台国の女王の正体を考えるという行為は、すなわち、日本という国家が、いかなる理念のもとに天皇制を維持してきたのかを問い直すことにほかなりません。
したがって、邪馬台国論とは、単なる古代史上の比定問題ではなく、現代日本の制度と思想の根幹に関わる、きわめて現在的なテーマであると言えるでしょう。








