神功皇后と卑弥呼の時代。『讖緯説』に隠された豊比咩、淀姫と宗女台与。


→比売語曽社の阿加流比売神(アカルヒメ)と香春神社の息長大姫大目命。
→神功皇后、三韓征伐の物語の実態。邪馬台国の宗女台与と淀姫(豊姫)の伝説。
上記の続きとなります。

5・神功皇后摂政の年代と『讖緯説』

 「記紀」の伝えでは神功皇后は、崇神、垂仁、景行、成務の後の仲哀天皇の皇后と伝わりますから、四世紀前後が想定される、崇神天皇世代より四世代は後の人物となります。これは著者が考える各家系図の一代当たりの年数の二十から二十五年程度の年数に当てはめれば、八十から百年程度となりますから、神功皇后は四世紀後半ごろの人物と想定されます。

崇神(300)―垂仁(320-325)―景行(340-350)―成務(360-375)―仲哀(皇后は、神功皇后)(380-400)―応神天皇(400-420)

※カッコ内は崇神天皇を300年に置き一代を二十から二十五年とした年代。

 しかし、『日本書紀』の紀年で神功皇后が、摂政として政務を掌ったという期間は、西暦に直すと二〇一年~二六九年になります。何故、実際の神功皇后の年代と『日本書紀』が伝える年代に齟齬が出るかですが、一般的にはこれは、『日本書紀』の紀年が実際より伸ばされているためといいます。

 「記紀」が初代天皇と記す神武天皇の即位年は、紀元前六六〇年に当たりますが、この年は六十干支では辛酉(かのととり)に当たります。通説では神武天皇の即位年は、実際の物ではなく、中国の『讖緯説(しんいせつ)』を用いるために、その年代まで引き延ばされたとされます。

 『讖緯説』では、六十干支で、六十年に一度回ってくる辛酉(かのととり)の年には「天命が革(あらた)まる、すなわち帝王が変わる」(『国史大辞典』)、また、六十干支の一回りを「一元(いちげん)」といいますが、これが二十一元回った「一蔀(いっぽう)」の年には、「国が起こる」とされています。神武天皇の即位年は、この両方が該当する年である、紀元前六六〇年が選ばれたとされるのが通説です。

 国が起こるとされる「一蔀」と「天命が革まる」辛酉年は、千二百六十年周期となります。神武天皇の即位年から一回り後も、同じ運命の歳となりますが、これは推古天皇(すいこてんのう)の九年になります。そのため一説では、その年が神武天皇の即位年の基準年となるといいます。因みに同年は、『日本書紀』によると、聖徳太子が、はじめて宮殿を斑鳩に建てた歳に当たるとされます。

 この説をとるならば、「記紀」の神武天皇の即位年は観念的な物であり、実際に神武天皇が存在していたとしても、その即位年は、紀元前六六〇年までは遡らないということです。
 例えば、実際の存在が有力視される六世紀あたりの継体天皇は二十六代、三世紀末から四世紀前半あたりのヤマト王権誕生時の天皇として有力な崇神天皇が十代であること等から考えて、それぞれの世代分を遡っても紀元前六六〇年まで到達しないとみるのが常識の範囲でしょう。
 これを観念上成立たせる方法として、使われたのが各天皇の寿命の引き伸ばしです。神武天皇の百二十七歳をはじめ、上古の天皇の年齢が長大になるのはこのためで、『日本書紀』では、これが始まるのが十六代仁徳天皇の頃になります。

 仁徳天皇の前代と「記紀」が記すのが応神天皇です。古くは那珂通世(なかみちよ)氏の指摘するところですが、『日本書紀』「応神天皇紀」の三年には、百済国の阿花王(あくえおう)の即位記事があり、これは西暦に直すと二七二年になります。同一人物とされる、「阿萃王(あしんおう)」の即位を『三国史記』では、三九二年と記しており、そこには、ちょうど二元分の百二十年の開きがあります。このことから『日本書記』「応神天皇紀」は、実際とは百二十年の開きがあると分かります。

 応神天皇の即位年は『日本書紀』によると西暦二七〇年になります。これを先ほどの『日本書紀』と、『三国史記』の開きを単純に応神天皇元年に当てはめると、三九〇年がその即位年となります。

 その前代とされるのが神功皇后で、摂政として政務を掌ったという期間は『日本書紀』の紀年を、西暦に直すと二〇一年~二六九年になります。神功皇后が実際にいたとすれば、応神天皇の即位の三九〇年より一世代前の、四世紀後半の人物となりますが、『日本書紀』の紀年では神功皇后の時代は二〇一年~二六九年ですから、実際と思われる年代より、百二十年前に振替えられているわけです。この時代は、所謂「魏志倭人伝」の卑弥呼の時代に相当します。

【日本書紀の紀年+120年】
応神天皇(390)→神功皇后(321-389)
【日本書紀の紀年】
応神天皇(270)→神功皇后(201-269、卑弥呼、台与の時代)

 結論からお伝えすると、神功皇后の時代を『日本書紀』の紀年を百二十年間ずらして、「魏志倭人伝」の卑弥呼の時代に当て嵌めた意図とは、中華帝国である魏に臣従していた事実の隠蔽と、「万世一系」の維持となると著者は考えています。まずこれが最優先事項であり、その整合性を保つために用いられたのが、『讖緯説』の適用による、初代天皇の即位年の創作だと考えられます。

  1. 神功皇后の時代(三九〇年より一世代前)を、百二十年間前に繰上げる。
  2. 寿命を延長することにより活躍年代を二〇一年~二六九年とし邪馬台国の時代に覆い被せる。
  3. 整合性を取るために、それ以前の天皇の寿命も伸ばし、その根拠として『讖緯説』を用いる。

6・神功皇后と卑弥呼の時代

 『日本書紀』の紀年で神功皇后三十九年は、魏の景初三年に当たり、『日本書紀』には、この年にわざわざ、「魏志倭人伝」の卑弥呼の遣いの記事を引用して、神功皇后=卑弥呼を匂わせています。景初三年は西暦で二三九年、その翌年の正始元年は二四〇年に当たり、神功皇后三十九年もまた西暦二三九年、その翌年は二四〇年となります。

三十九年。この年は、太歳己未である。〔『魏志』は、「明帝景初三年六月、倭の女王、大夫難斗(升か)米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守鄧(劉か)夏、吏を遣わし、将て送りて、京都に詣らしむ」といっている。〕

四十年。〔『魏志』は、「正始元年、建忠校尉梯携(儁か)等を遣わして、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」といっている。〕(1)(『日本書紀』神功皇后紀)

 これまでも著者は、『日本書紀』の根底に流れる編纂方針は「万世一系」の創作にあると主張して来ました。しかし、実際の動きは再三みて来ましたように、征服者側は、臣従した元統治者側の姫を娶り、それに産ませた男子を当主にさせ、非征服者側の家の男系を入れ替える方法で家系を塗り替えていました。これは天皇家(大王家)も例外ではありませんが、それの天皇家への適用の防止として、作られた思想が、「万世一系」だというのが著者の主張です。

征服者
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姫(前統治者、前王朝の家系)―男子(征服者と前統治者の血を受継ぎ、家名は維持)

 これは、実際の天皇家の男系が変わっていると、そこを修正するか削除する必要が生まれますが、それに使われたのが『讖緯説』による紀年の引き伸ばしになると想定されます。神功皇后の時代により覆い被されたのは、卑弥呼の時代でしたが、「魏志倭人伝」によると、その亡き後は、男王が立ったが治らず、その後二人目の女王として台与とが立ち、二人の女王が統治したと、そこには記されます。

 前述のように『日本書紀』の編集者は、卑弥呼を認知していました。もし、これが倭国内の一地方の領主であったなら、それに続いて、何処かの地方の女豪族の話と記せたはずです。ここから考えると、倭国の女王卑弥呼は天皇家の系譜の中におり、それを記すと「万世一系」が成立しないために、その存在を消されたと考えるのが首肯できる考えではないでしょうか。この「万世一系」の不成立は、卑弥呼の父の男系と、その後の所謂ヤマト王権の大王の男系が異なるとなることにより起こっていると想定すると、その必要性が明確になります。

初期大王家(倭国大乱まで)―○(数代略)―卑弥呼→台与(宗女、一族の姫)→ヤマト王権
※台与からヤマト王権への委譲の際に男系は途切れる

 倭国が乱れ、その後に卑弥呼は共立されるわけですが、これは共立者たちの合意の上に成り立ったと思われます。近代以前に、これを「血縁カリスマ」に求めるのは自然の成り行きで、この場合は倭国大乱の前の男王の一族の血縁がこれに該当すると考えて不都合はないでしょう。

7・卑弥呼と台与と「万世一系」

 香川県の水主神社の由緒には、孝霊天皇の息女の倭迹々日百襲姫命は「卑弥呼の死後の騒乱」を避けて、八歳でこの地に来たと伝わるとあり、これを信じるならば、倭迹々日百襲姫命の父の孝霊天皇が、「倭国大乱」時の天皇に比定できます。

 このことから、卑弥呼の共立者たちが求めたであろう「血縁カリスマ」は、孝昭天皇から始まる、「孝」が接頭する王朝の血がこれに当たると考えられます。また「魏志倭人伝」には、卑弥呼共立前に男王が七、八十年続いたとありますが、これは想定の一代あたり代数の二十年程度で割ると、三人程度の人数になり、「倭国大乱」時の天皇と想定される、孝霊天皇までの代数に揃います。

孝昭天皇―孝安天皇―孝霊天皇(倭国大乱)―卑弥呼(この血縁より擁立)

 この後に「魏志倭人伝」は、卑弥呼の宗女台与が立ったと伝えます。この「宗女」とは一族の姫をあらわします。『日本書紀』の紀年延長の目的が、「万世一系」の維持で、この二人がそれに接触するためと考えると、台与の子供から続く男系が大王家を継ぎ、それが女王の男系と異なると、それが崩れるとなります。

卑弥呼(孝昭天皇の血縁)―台与(卑弥呼の一族、宗女)

台与(孝昭天皇の血縁)
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配偶者(孝昭天皇の男系ではない)―台与の男子(「万世一系」が崩れる

 これを考える上で、注目に値する伝承が、海部氏の伝承です。そこには、邪馬台国の女王台与は二六六年に三十才のときに崇神天皇と結婚したといいます。この台与は海部氏伝えの「小止与姫」であるといい、これは『海部氏勘注系図』の十一世孫に記される「日女命」だと思われます。

 台与の配偶者の崇神天皇は、饒速日命を祖とする一族であることは、著書で述べました。一例を挙げると、『先代旧事本紀』によると、崇神天皇の御世の祭祀は、饒速日命を祖とする伊香色雄命(いかがしこおのみこと)と、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が国家祭祀を一手に引き受けていることなどから、この一族がその統治を担ったと思われ、台与の配偶者とされた崇神天皇もこの一族の出身だと思われます。

台与(小止与姫: 十一世孫「日女命」)
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崇神天皇(饒速日命の男系)―新王朝の開祖(十二世孫:建稲種命)

 

 この想定をとれば、男系が変わり「記紀」のテーマである「万世一系」が崩れるとなりますので、「記紀」が隠したかった事実とは、後の天皇家の系譜の中に、邪馬台国の卑弥呼、台与の二人の女王の存在であったと推測されます。

 それを隠すために生み出されたのが、神功皇后の即位年代を百二十年前倒し、寿命を延長して卑弥呼、台与の時代を神功皇后一人の治世として覆う方法です。そのために必要となった長大な寿命の不自然さを紛らわすために用いられたのが『讖緯説』であり、これは初代天皇までの天皇の寿命の操作まで続いたとなります。

 『日本書紀』には「太歳」の語が記され、これは殆どの天皇の即位年に一度だけ記されます。これが何故か神功皇后紀には三度記されます。「太歳」が即位年を表しているとすると、これは神功皇后紀の内容は幾人かの女帝の即位が有った暗示とみることができ、先ほどの推論を元にすると、その対象は卑弥呼、台与が該当者とみることに不都合はないと思います。

8・倭迹々日百襲姫命、宗女台与の世代

 海部氏の伝えでは二六六年に三十才だったという邪馬台国の宗女台与は、『海部氏勘注系図』では十一世孫世代に当たりましたが、倭迹々日百襲姫命は、その二世代前の九世孫世代の「日女命」の亦の名として記されます。これは二世代を四十から五十年とすると、三世紀ちょうど当たりの世代の人物となり、大凡卑弥呼の時代と重なります。

倭迹々日百襲姫命(九世孫、216-226年)―〇(十世孫、241-246年)―宗女台与(十一世孫、266年)
※年数は台与が三十歳の266年から一世代あたり25、20年を引いた年数。

 先ほどの水主神社の伝承では倭迹々日百襲姫命の亡命の原因は、「卑弥呼亡き後の混乱」と伝わりましたが、「勘注系図」の年代を取ると、「倭国大乱の混乱」の蓋然性が高いのではと思われます。

倭迹々日百襲姫命(九世孫世代:二世紀前後)―○(十世孫世代: 二四七年頃に卑弥呼亡くなる)―台与(十一世孫世代: 二六六年)

 十一世孫の小止与姫の子と思われる、十二世孫の建稲種命は、「大毘毘命」とありますので、この人物は開化天皇だとわかりますが、これだと父と伝わる崇神天皇と、親子が入れ替わってしまいます。

崇神天皇(十一世孫、十代)―開化天皇(十二世孫、九代)?
※カッコ内は天皇の即位順の代数。

 この現象は再三になりますが、『日本書紀』が記す崇神天皇紀は、第七代孝霊天皇の息女の倭迹々日百襲姫命から、垂仁天皇世代の四道将軍までを記しており、この複数世代の期間で起こった事柄が、崇神天皇の一世代の事績として纏めているために起こっています。結論を記すと台与の配偶者の崇神天皇とは、饒速日命を祖とする王朝の男王の意味だと捉えていいでしょう。

 綏靖、安寧、懿徳天皇は宇佐神宮旧宮司家の宇佐公康氏によれば物部氏の首長といいます。『日本書紀』崇神天皇紀に記される内容は、広い範囲を一人の天皇の事績として扱っていますが、主にそれらは綏靖、安寧、懿徳天皇を含めた物部氏の首長の事績を包括的に纏めた物で構成されていると考えられます。
 海部氏の伝えでは台与の配偶者が崇神天皇と伝わりましたが、崇神天皇紀に記された人物の投影の一人と想定できる、懿徳天皇とその配偶者と伝わる天豊津媛命が、その該当人物だと思われます。

綏靖―安寧―懿徳(台与の配偶者)―開化―崇神天皇

(この範囲の天皇の事績が崇神天皇紀一代として記されているため、崇神天皇とも伝わっていると思われる)

 『日本書紀』の紀年では、神功皇后摂政時代は、二〇一年から二六九年になり、二四七年頃に亡くなったと想定されている、卑弥呼の時代とほぼ重なります。「魏志倭人伝」が記す卑弥呼の次代は、宗女台与姫ですが、これは豊姫、豊比咩命と伝わる姫と同一人物と思われます。この豊比咩命の別名は淀姫でしたが、これが神功皇后の妹と伝わるのは、その即位年が『日本書紀』の紀年の神功皇后の活躍年代の後半に当たるために、後世よりそのように称されたものだと考えられます。

神功皇后(二〇一年から二六九年、卑弥呼は二四七年頃に亡くなる)→豊比咩、淀姫命(二四七年から数年後に即位か。神功皇后の妹とされる)

 三韓征伐など神功皇后の事績として各地に残る伝説の多くは、この神功皇后の妹とされる豊比咩、淀姫が行っていると伝わることから、その多くも本来は、この姫が行った事績が元なのでしょう。(20250514)


引用文献
『日本書紀』監訳:井上 光貞 訳者:川副 武胤 佐伯 有清 中央公論新社

参考文献
(1)『古代海部氏の系図』 金久与市 学生社 1983.11
(2)『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022
(3)『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023

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