神功皇后、三韓征伐の物語の実態。邪馬台国の宗女台与と淀姫(豊姫)の伝説。


→比売語曽社の阿加流比売神(アカルヒメ)と香春神社の息長大姫大目命。
上記の続きとなります。

3・三韓征伐の一つのモデル

 香春神社の由緒によると辛国息長大姫大目命は、「神代唐土経営のため渡り給う。師木水垣宮(崇神天皇御字) 本郷に止り帰座之第一に鎮り給う」とあり、当国から唐土へ渡ったのでしたが、実際の歴史上に、これは記されているのでしょうか。

 『日本書紀』の崇神天皇六十五年には、任那国(みまなのくに)が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢して来たといい、その任那国は、新羅の西南にあると記されます。

 『新撰姓氏録』吉田連の由来には上記と類似する唐土経営の伝承が伝わります。それによると、崇神天皇の時代に任那国から、新羅国と争いになっているので将軍を派遣してくれれば、領国になると奏上があったと記されます。その紛争地の三巴汶は、同地は富が饒ていたので、新羅国との争いが絶えないといいます。そこで任那国は、それの解決のために派兵を求め、天皇は喜んでそれに応じたと記されます。

 そこで奉勅により派遣されたのが、吉田連の先祖の塩乗津彦命(しおのりつひこのみこと)だと『新撰姓氏録』は伝えます。塩乗津彦命の出自は孝昭天皇の皇子の天帯彦国押人命(あまたらしひこくおしひとのみこと)の四世孫の彦国葺命(ひこくにぶくのみこと)の孫だと記されます。塩乗津彦命は宰(みこともち)として当地を良く治めたので、その後裔の姓は吉氏となったといい、後世の聖武天皇の時代には吉田連を賜ったといいます。

 同書では塩乗津彦命の容姿も伝え、それによると頭上には五尺もある、三岐の贅(ふすべ)(こぶ)があり、それが松樹の如くであったために、松樹君と号したといいます。その意味するところは恐らく、兜についた装飾の角の比喩と思われます。一説にはその名が「角がある人」との意味だという都怒我阿羅斯等は、その兜の装飾が「角」に見えた故から、その名がついたということからも、これを連想できます。

 塩乗津彦命の祖先には孝昭天皇がおり、その和風諡号は観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)といいますが、そこには「松」が内包され、また、その始祖の素戔嗚尊の異名が牛頭天王であることも考え合わせると、塩乗津彦命の容姿の「松」とは、これを指しているとなるのかもしれません。

 朝鮮半島に渡り、統治をしたという、塩乗津彦命のその名は、珍彦命こと椎根津彦(しいねつひこ)命にも類似します。また、その祖先は天帯彦国押人命と伝わりましたが、この人物は、天津彦根命の後裔氏族と重なることは再三述べて来ました。今一度、簡単に振り返ると、その系譜は下記になります。

「三上祝系図」
天津彦根命―天御影命―○―阿多根命(山代国造)→息長氏

『海部氏勘注系図』
玉勝山代根子命(一云、彦国押人命、又云、天津彦根命)―伊岐志饒穂命―阿多根命(山代国造)→息長氏

 歴史上で記される天帯彦国押人命の一族は、神話においては天津彦根命とされ、それの後裔が「息長氏」を名乗っている一族となります。朝鮮半島経営をしたという塩乗津彦命もこの、琵琶湖から流れる淀川水系に勢力があった一族の後裔だと考えると、淡海比売命の別名を持つ息長大姫大目命は、その一族の事績故に、香春神社の由緒で「唐土経営のため渡り給う」と記されて行ったものと思われます。

天津彦根命(天足彦国押人命)―息長大姫大目命(唐土経営)→帰国

天帯彦国押人命―彦国葺命(四世孫)―○―塩乗津彦命(唐土経営

4・神功皇后の妹の淀姫と豊姫

 唐土経営をしていたという息長大姫大目命のその名には「息長」が接頭しますが、その「息長」の姫といえば直ぐに想起されるのは、神功皇后こと息長帯比売命でしょう。この息長帯比売命も三韓征伐の伝説が残り朝鮮半島と密接な関係を残しますが、その「妹」として、九州一円から瀬戸内にかけて伝承を残すのが淀姫です。

 九州で淀姫を祭る代表的な神社が、肥前国一宮の與止日女神社(よどひめじんじゃ)(佐賀県佐賀市大和町大字川上)です。『水鏡』などによると、淀姫は海底の龍宮にいる龍王から、潮の満ち引きを自在に操れるという干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を借り受けて、それを使い異国の軍を撃ち破ったといいます。

 この淀姫は「乾元二年記」に、「淀姫大明神者、八幡宗廟之叔母、神功皇后之妹也」とあり、そこで神功皇后の「妹」と記されますが、これは、『宇佐宮縁起』や、『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』でも同様です。また、淀姫は『宇佐宮縁起』などでは、「豊姫」であるとも伝わります。

淀姫(神功皇后の妹、豊姫)

 神功皇后とその妹という淀姫は、朝鮮半島の異国を征伐したという伝説を持ちましたが、実際の歴史上でこれと類似する記録は、『新撰姓氏録』が伝える天帯彦国押人命の六世孫に当たる、吉田連の祖の塩乗津彦命の唐土経営伝承でした。

 この天帯彦国押人命の六世孫は、どの時代を指すかを考える指標となるのが『海部氏勘注系図』です。そこには、「一本云、彦國忍人命五世孫大難波命兒大矢田彦命兒大使主命」とあるので、大矢田彦命が天帯彦国押人命の六世孫世代の人物だと分かります。

彦國忍人命―大難波命(五世孫)―大矢田彦命(六世孫)―大使主命(七世孫)

 彦国押人命の七世孫が大使主命(おおおみのみこと)だということになりますが、これは系図には、十四世孫として記されます。つまり、天帯彦国押人命の六世孫というのは、十三世孫世代となりますが、系図本宗には、ここに志理都彦命(しりつひこのみこと)が記されます。前世代の十二世孫世代の系図本宗には開化天皇こと「彦大毘毘命」が記されることから、その次世代の志理都彦命は崇神天皇に当たると考えられ、著者は大凡西暦三百年頃の人物と想定しています。これは先ほどの塩乗津彦命の世代の年代と同年代となり、『新撰姓氏録』の崇神天皇の派遣世代とも揃うとなります。

十二世孫世代(開化天皇)―十三世孫世代(崇神天皇: 塩乗津彦命の派遣)

 塩乗津彦命の朝鮮半島での活躍が想定される三百年前後は、半島側の資料でもある『三国史記(さんごくしき)』でも、倭人の活動が活発に記される時期です。「新羅本紀」には、二八七、二八九、二九二、二九四、二九五年と複数年に渡って倭人来襲関連の記事を載せます。その後、三〇〇年には「与倭国交聘(倭国と修交した)」といいます。

 お互いの資料からも三世紀半ばから後半は、両国間の関係は穏やかな状況ではなかったのではないかと想像できます。 これは実際の天皇世代では開化、崇神朝前後を想定しているのは既述ですが、『日本書紀』の紀年に従うと、神功皇后と、その次世代が該当年代となります。『日本書紀』の紀年は、神武天皇の即位年を元年とする皇紀で表されますが、それに当てはめると、神功皇后摂政元年は八六一年、次世代の応神天皇元年は九三〇年となります。これは西暦に直すと、二〇一年と二七〇年になります。これは先ほどに検討した、新羅国と紛争している年代と大凡重なるとなります。

 神功皇后は朝鮮半島への遠征、所謂三韓征伐(三韓征討)をしたと「記紀」には記され、その活躍年代という二〇一年から二六九年は、海部氏の伝えによると、邪馬台国の宗女台与(小止与姫)の活動期間と重なり、これは『海部氏勘注系図』には、十一世孫に記されます。遠征を行ったという神功皇后の妹の淀姫が豊姫と伝わることとは、これを意味していると思われます。

十一世孫世代(邪馬台国の宗女台与)―十二世孫世代(開化天皇)―十三世孫世代(崇神天皇: 塩乗津彦命の派遣)

 これらのことから三韓征伐の実態の一旦は、邪馬台国の宗女台与の時代前後に行われた、朝鮮半島との相克を、神功皇后世代に振り替えて、物語化した物だと想定できます。(20250423)


参考文献
(1)『古代海部氏の系図』 金久与市 学生社 1983.11
(2)『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022
(3)『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023

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