1・比売語曽社の阿加流比売神
垂仁天皇が娶ったという、阿耶美能伊理毘売命(あざみにいりひめのみこと)のその名を考えたときに、『日本書紀』では薊瓊入媛(あざみにいりひめ)が「入る」媛と書くことからも、「アザミ」の地に入って来た姫と、想像できます。これは豊前国仲津郡の呰見郷(あざみごう)に入って来た姫といえるでしょうから、呰見川で禊をする、豊日別宮の比売大神こと豊比咩命を奉斎した巫女の一人と想定できるのは以前に説明しました。
阿耶美能伊理毘売命は垂仁天皇の妃ですが、その事績を記した『日本書紀』垂仁天皇紀は、即位後の一連の事柄を述べた後に、何故かまずは最初に渡来人の訪日譚を語ります。ここで語られる一人が、意富加羅国(おほからのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)です。
『日本書紀』によれば都怒我阿羅斯等は白石から生まれた姫を追って来日しますが、その姫は、難波の比売語曽社と、豊国の国前郡の比売語曽社の神となったといいます。『古事記』では比売語曽社の姫神は天之日矛の妻の阿加流比売神(あかるひめのかみ)というといいますので、配偶者を同じとする都怒我阿羅斯等と天之日矛は同一神の可能性が強いとなります。
都怒我阿羅斯等(『日本書紀』)
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比売語曽社の阿加流比売神
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天之日矛命(『古事記』)
『古事記』によれば、天之日矛命が驕り昂り、阿加流比売を罵ったため怒った姫は、「吾が祖の国」へ行くといい残し、小舟に乗って逃げ渡って来たといいます。この比売語曽社の女神は、豊国の国前郡の神と『日本書紀』は記し、その比定地は豊後国国東郡(国埼郡)の説が強いです。しかし一方で豊前国田川郡に鎮座する、香春神社(かわらじんじゃ)の神だとの別説もあります。それをとっているのが『太宰管内志(だざいかんないし)』で、そこには「谷川氏云、香春神又比売語曽神社と号す」と記されています。どちらが有力かといえば『太宰管内志』の著者の伊藤常足(いとうつねたり)は同書の中で、比売語曽社の神は「筑前の姫島より豊後の姫島に移り給へる時、此香春にも暫く留まり給へりし物と聞ゆ」と意見を述べていることから、そのどちらも正しいといえるのでしょう(『宇佐八幡と古代神鏡の謎』木村晴彦)。
『宇佐八幡と古代神鏡の謎』によれば、この『太宰管内志』に記載されている谷川氏は、現在でも谷川屋敷の字が残っている採銅所宮原の人と思われ、そこには今でも、谷川姓の人が住んでいるといいます。谷川氏の居住地という「採銅所」とは、「銅」を採る場所の意味ですが、その用途は宇佐神宮の放生会で奉納される宝鏡の材料となる物です。この採銅所は香春岳(かわらだけ)中腹に所在し、その地に鎮座するのが古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)です。現在の祭神は豊比咩命、神功皇后、應神天皇ですが、神功皇后と應神天皇はのちに勧請されたものなので、その主祭神は豊比咩命となります。このため比売語曽社が香春神である説を採れば、古宮八幡宮の豊比咩命がその有力な候補者となります。
比売語曽社の女神の配偶者は、都怒我阿羅斯等であり天之日矛命でしたが、古宮八幡宮が所在する「採銅所」には、その都怒我阿羅斯等を祭る現人神社(あらひとじんじゃ)(福岡県田川郡香春町大字採銅所)が鎮座します。都怒我阿羅斯等は、「社伝」によると比売語曽社の女神を慕い追い、最後には香春岳の麓台の森に鎮まったといいます(1)。また、『太宰管内志』にはこれを追認できる伝承を載せ、それによると古宮八幡宮の宮司家の鶴賀家の祖先の都怒我阿羅斯等は、本宮の夫神だろうとしています。
これらを纏めると古宮八幡宮の祭神の豊比咩命は、比売語曽社の女神でありその夫は都怒我阿羅斯等となるとなります。
豊比咩命(比売語曽社の女神: 阿加流比売神)
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都怒我阿羅斯等(=天之日矛命)
2・香春神社の息長大姫大目命
ここまでの検討では、比売語曽社の女神こと阿加流比売神は比売大神こと豊比咩命と類似するとなりました。
この天之日矛命の妻の比売語曽社の女神を記している系図が、天津彦根命を祖とする、「三上祝」の系図です。そこには、天津彦根命の子として、息長大姫大目命(おきながおおひめおおめのみこと)が記され、その分注には、「淡海比売命、比売語曽命、天之日矛命妻神也、延喜式神名帳豊前国田川郡ニ辛国息長大姫大目命神社アリ」とあります。
この伝えを採るなら、息長大姫大目命は天之日矛命(=都怒我阿羅斯等)が追って来た比売語曽社の姫神となります。息長大姫大目命が祭神の辛国息長大姫大目命神社(からくにおきながおおひめおおめのみことじんじゃ)は、現在は香春神社(かわらじんじゃ)(福岡県田川郡香春町香春)の第一殿で祭られています。
香春神社は和銅二年に、辛国息長大姫大目命神社、忍骨命神社(おしほねのみことじんじゃ)、豊比咩命神社(とよひめのみことじんじゃ)の三社を和合して新宮として創建された社です。この新宮の対語として先ほどの「古宮」八幡宮はあります。
上記三社はいずれも延喜式内社となりますので、辛国息長大姫大目命神社と豊比咩命神社は異なる神を奉斎していると考えるのが自然です。このことから、「三上祝」系図の伝えを採るのなら、天之日矛命(=都怒我阿羅斯等)の后神は豊比咩命ではなく息長大姫大目命となります。
息長大姫大目命
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天之日矛命(=都怒我阿羅斯等)
香春神は『豊前国風土記逸文』に「新羅国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名けて鹿春神と曰ふ」とあり、また辛国息長大姫大目命神社の頭に海外を想起させる「辛国」が付くところから、渡来の神と考えられがちです。しかし、その由緒では、「辛国息長大姫大目命は、神代唐土経営のため渡り給う。師木水垣宮(崇神天皇御字) 本郷に止り帰座之第一に鎮り給う」(『香春町誌』)とあり、これを信じるならば、日本から唐土(辛国)に行き、崇神天皇の時代に帰って来たとなります。
息長大姫大目命が比売語曽社の姫神であるとの伝えを素直に受けとると、『古事記』では、比売語曽社こと阿加流比売命は、「吾が祖の国へ行くといい残し、小舟に乗って逃げ渡って来たといいます」から、神社由緒と付合することになります。
日本が祖先の国→息長大姫大目命(=阿加流比売命: 比売語曽社は朝鮮半島へ)→祖国に帰る
息長大姫大目命のその名を考えると、接頭する「息長」は著者の見解では、琵琶湖から、淀川水系に勢力を張っている一族の息長氏をあらわしていると思います。これは先ほどの「三上祝」の系図の文注「淡海比売命」にも符合します。
この「息長」を内包する人物の初出は、『古事記』で天之御影神(あめのみかげのかみ)の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)になります。これは息長大姫大目命と同様に天津彦根命を祖先とします。その祖先の天津彦根命は滋賀県の彦根の地名の由来であり、その父の天之御影神は琵琶湖東岸の御上神社の祭神と、どちらも近江国と関連する神となります。
その天津彦根命の一族に連なる息長大姫大目命の別名も琵琶湖の古名の「淡海」を冠した淡海比売命でしたので、その由来は、朝鮮半島ではなく近江、山城国とみるべきでしょう。
天津彦根命―天之御影神―息長水依比売
息長大姫大目命(淡海比売命)
ここで一度纏めますと、息長大姫大目命の祖先は近江、山城国出身で朝鮮半島に渡り、その経営をした一族で、その後、恐らく数世代後に、半島の豪族に嫁いだ姫が日本の豊国に戻って来たとなるのでしょう。また、伝説では、それは比売語曽社の女神こと阿加流比売命で、その配偶者は天之日矛命(=都怒我阿羅斯等)であったとなります。要するに比売語曽の女神は、豊比咩命を奉斎している一族の姫で、豊国に戻って来たとなり、またその配偶者は、天之日矛命(=都怒我阿羅斯等)であろうとなります。
この構図は、天之日矛命(=都怒我阿羅斯等)が想定される垂仁天皇を配偶者とし、豊比咩命を祭る地である、「アザミ」に入って来た名前と想像できる、阿耶美能伊理毘売命と同様と気づきます。
息長大姫大目命(豊比咩命を奉斎する地に鎮座、配偶者は天之日矛命=都怒我阿羅斯等)
阿耶美能伊理毘売命(豊比咩命を奉斎する地の地名「アザミ」に入って来た姫、配偶者は天之日矛命=都怒我阿羅斯等が推定される垂仁天皇)
この推測から、息長大姫大目命は垂仁天皇の妃の阿耶美能伊理毘売命が該当する蓋然性が高いといえるのではないでしょうか。
現人神社「社伝」では、都怒我阿羅斯等は神武天皇の兄だといい、それは三毛入野命だともいいます。恐らくこの三毛入野命の意味するところは、三毛郡(みけのこおり)に入った人物という意味でしょうが、これは宇佐家の祖の神武天皇も同様でした。また、「宇佐家古伝」では神武天皇の兄は景行天皇であるとの伝えはこれと類似します。
垂仁天皇(≒都怒我阿羅斯等 社伝: 神武天皇の兄)―景行天皇(宇佐家古伝:神武天皇の兄)
「宇佐家古伝」で景行天皇の兄弟という神武天皇と同一人物となるのが物部氏で準大王ともいえる動きをみせる稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)となるのは先述していますが、『古事記』でこれと同一人物が想定されるのが稲瀬毘古王(いなせびこのみこ)です。
稲瀬毘古王の配偶者は垂仁天皇と、阿耶美能伊理毘売命の娘の阿耶美都比売命となりますから、これは物部氏と天之日矛命の一族の連合の証の婚姻と捉えることができると思います。(20250414)
垂仁天皇(天之日矛命の一族)
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阿耶美能伊理毘売命―阿耶美都比売命(配偶者:稲瀬毘古王「物部氏首長」)
垂仁天皇―阿耶美都比売命
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稲背入彦命―兵主神の祭主一族(天日槍命の血を受継ぐ)
引用文献
(1)『香春町誌』 香春町誌編集委員会 編 1966
参考文献
(1)『宇佐八幡と古代神鏡の謎』木村晴彦 田村圓澄, 木村晴彦, 桃坂豊 戎光祥出版2004
(2)『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023