廣瀨大社の若宇加乃女命と豊受姫命。邪馬台国の女王台与と稚日女尊。【伏見稲荷大社四】


→伏見稲荷大社の大元神と男女一対の祭祀。宇迦之御魂大神と佐田彦大神、大宮能売大神。【伏見稲荷大社一】
→白鳥の神霊と飛鳥の由来。稲魂の大歳神と猿田彦大神【伏見稲荷大社二】
→秦氏の祖神の八咫烏こと賀茂建角身命。上賀茂神社の賀茂別雷大神と下鴨神社の玉依媛命の一族【伏見稲荷大社三】
上記の続きとなります。

9・廣瀨大社の若宇加乃女命と豊宇気姫

 秦氏の所伝では、下社の祭神は若倉稲姫魂命とされています。この神の神徳は広大であると伝えられています。

當社者、御神德衣食住之大祖而、從上天子、到下萬民、幸福豐樂之神明也、又曰、當社者廣瀨坐若宇加乃女命也

当社は、衣食住をつかさどる大いなる祖神であり、天子(すなわち天皇)から万民に至るまで、すべての人々に幸福と豊かさをもたらす神明である。また、言い伝えによれば、この社には廣瀨にお鎮まりになる「若宇加乃女命(わかうかのめのみこと)」がお祀りされているという(著者大意)。

 すなわち、若倉稲姫魂命は単に食物を司る神ではなく、「幸福豊楽」を授ける広大な神徳を備える神であり、その神は廣瀨に鎮まる若宇加乃女命と同一であると記されていることになります。

 この「廣瀨に鎮まる若宇加乃女命」とは、奈良県北葛城郡河合町に鎮座する廣瀬大社の祭神を指します。同社は式内社で、『延喜式』「神名帳」には大和国廣瀬郡・廣瀬坐和加宇加乃賣命神社と記されています。神社名からも分かるように、祭神は和加宇加乃賣命(わかうかのめのみこと)です。
 また、『大和志料』には、この姫神の別名は豊宇気姫であるとされ、さらに和加宇加乃賣命の神徳について次のように伝えています。

水穀ヲ守護シ且天照大神ノ御膳ヲ掌リ、特ニ潔齊(ものいみ)シ其職ヲ奉スルヲ以テ大忌神トモ称セラル(『大和志料』)

 これをまとめると、和加宇加乃賣命は、天照大神の御膳を掌る御食津神であり、特別な潔斎のもとに奉仕することから「大忌神」とも称される姫神である、ということになります。
 天照大神が内宮の神であるのは言うまでもありませんが、その御膳を司る神といえば、外宮の豊受大神が想起されます。

 豊受大神は「伊勢神道」において、大元神である天御中主神の別名ともされています。この点は、伏見稲荷大社の宇迦之御魂大神が大元神的性格を帯びることと共通しており、両者が似通った神徳を有することに気づかされます。しかし、和加宇加乃賣命は天照大神の御膳を掌る御食津神であり、豊宇気姫の別名ともされることから、大元神そのものではないことは明らかです。

 『大和志料』が引く、『新編廣瀨神社記録抄』には、主祭神の和加宇加乃賣命は

中央月座(つきのざ) 御食保爲若稻女命也(みけもたするわかうかのめなり)

と記されています。同書は、和加宇加乃賣命を「月神」として伝えており、これは先に述べた日月二神のうち「月」に該当する神格であると考えられます。

 元初の祭祀は、大元神の神霊を水火・日月の二神として分霊し、その霊威を火継した人物が現世において奉斎する形式をとっていたと著者は考えています。以上の記述を踏まえるなら、このうち「月神」としての役割を担った人物が、和加宇加乃賣命として現世を生きた姫であったと推定されます。

10・邪馬台国の宗女台与と下社の若倉稲姫魂命

 「神道五部書」においては、伊弉諾・伊奘冉尊の男女二神が大元神を奉斎したと記されています。この奉斎の形式を、現実世界において「火継」のかたちで受け継ぎ、現世で大元神を奉斎する存在が、後の天皇となる人物であったと考えられます。伊弉諾・伊奘冉尊の二神は陰陽を象徴する神格であり、これは日神である天照大神と、その荒魂に相当する水神・瀬織津姫神の対構造に通じることは、すでに再三述べてきたところです。

 現実世界において、この「火継ぎ奉斎」を担った人物は複数の世代にわたって存在し、その死後に神として称えられるようになったのでしょう。和加宇加乃賣命(わかうかのめのみこと)もまた、大元神そのものではなく、現世における奉斎者であり、その死後に神名を贈られたと考えられます。これは、生前の名と死後に与えられる戒名が異なる場合があるという、現代の例にも通じる発想です。

 この前提に立つならば、和加宇加乃賣命は神代の神話的存在ではなく、現実世界を生きて奉斎の任にあたった姫であったとみなして差し支えないでしょう。そして、その姫の正体を探るための重要な手がかりが、『海部氏勘注系図』に見いだされるのです。

 和加宇加乃賣命の別名は豊宇気姫とされています。元伊勢とは、『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に天照大神が豊鍬入姫命に付けて宮中から遷され、その後を倭姫命が継いだことに端を発します。この二人が各地を巡り、天照大神を奉斎した地を、後世「元伊勢」と総称するようになりました。

 最終的に天照大神は現在の伊勢神宮に鎮座することになりますが、その元伊勢の候補地の一つが、京都府宮津市に鎮座する籠神社です。同社の歴代宮司家は海部家であり、その家に伝わったとされる系図が『海部氏勘注系図』です。

 『海部氏勘注系図』は、始祖である彦火明命から始まる系図であり、ある段階までは天皇家の家系を伝える皇統譜の別伝となります。系図には、彦火明命から十一代目に当たる日女命が記され、その別名を豊受姫命と伝えています。海部氏の伝承によれば、この豊受姫命は邪馬台国の宗女台与にあたるといいます。したがって、豊受姫命の別名である和加宇加乃賣命は、現世においては女王として実在した人物に当たることになります。

 女王台与は、邪馬台国の女王の宗女(近類)であるため、卑弥呼もまた『海部氏勘注系図』に記されている人物に相当することになります。「魏志倭人伝」には、卑弥呼は長大(高齢)であり、後を継いだ台与は十三歳であったと記されているため、両者の関係は祖母と孫の世代差にあたります。
 繰り返しになりますが、台与の祖母世代に位置づけられる九世孫の日女命は倭迹々日百襲姫命であり、海部氏の見解ではこれを卑弥呼に比定します。そして、この卑弥呼に当てられた倭迹々日百襲姫命は、「記紀」が神話として語る女神、すなわち天照大神に相当することになります。


 ところで、「記紀」において天照大神は大日孁貴(おおひるめのむち)と記されますが、この「大日」と対を為す女神が稚日女尊(わかひるめのみこと)です。「記紀」の神話では、大日孁貴と稚日女尊はともに斎服殿(いみはたどの)で神の御服を織っていたところ、素戔嗚尊の乱暴狼藉に驚き、大日孁貴は機から落ちて梭に当たり傷つき、稚日女尊は神去った(亡くなった)とされ、両者はほぼ同一の存在として描かれています。
 これを現実世界に当てはめて理解するならば、一連の考察から、系図における九世孫の倭迹々日百襲姫命と、その孫世代に位置づく十一世孫の台与姫の二代が対応することになります。このことは、『海部氏勘注系図』において十一世孫の日女命の亦名を稚日女尊としている点からも追認されます。

天照大神(九世孫:大日孁貴=卑弥呼=倭迹々日百襲姫命)―十世孫―稚日女尊(十一世孫:宗女台与)

11・二つの葵祭と懿徳天皇の皇后、天豊津媛命

 海部氏の伝えでは、邪馬台国の宗女台与は崇神天皇と婚姻したと伝わります。崇神天皇が物部氏系の天皇であることは、すでに著書等で述べてきたところ(1)ですので、ここでは詳述しません。物部氏の祖は饒速日尊であり、この神は瓊々杵尊と同一神とみなすことができます。そして饒速日尊(=瓊々杵尊)は賀茂建角命の先祖にあたるため、その子孫である秦氏の祖神ともなる存在です。

饒速日尊(=瓊々杵尊)→賀茂建角命→秦氏

 『山城国風土記逸文』には、賀茂建角命の娘である玉依日売命と、乙訓郡の社に坐す火雷命との子が賀茂別雷大神であると記されています。賀茂別雷大神は上賀茂神社の祭神とされていますが、「風土記」によれば、その神名は外祖父である賀茂建角命に因むといいます。

 賀茂別雷大神は、『海部氏勘注系図』では若宇加乃女命(=豊受姫命=台与)の孫として伝わります。このことから、その父にあたる乙訓の火雷命の該当者は姫の子となり、同系図によれば、その人物は彦大毘毘命とされています。これは開化天皇に相当することになります。

 若宇加乃女命(=豊受姫命=台与)の配偶者は崇神天皇であったと伝えられています。一方で、開化天皇の皇子が『記紀』において崇神天皇とされるため、親子関係が逆転するという矛盾が生じます。この矛盾は、『記紀』が描く崇神天皇の事績が「物部氏の天皇」に属する複数世代の事柄を集成したものであり、そのうちのある一代の天皇が台与の配偶者であったことが、後代に崇神天皇の条へ集約されて伝えられたためと考えられます。

物部氏の天皇の一人(饒速日尊=瓊々杵尊を祖とする)
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若宇加乃女命(=豊受姫命=台与)―彦大毘毘命(皇后は玉依日売命)―賀茂別雷大神(崇神天皇)

 京都の上賀茂神社では、賀茂別雷大神の御阿礼(みあれ)の神事である葵祭が行われていますが、同じ名称の祭は籠神社でも行われています。籠神社の葵祭の起源は懿徳天皇四年とされ、また同社の創建は一説に懿徳天皇の御世と伝えられます。このことから、籠神社の祭神である彦火明命が懿徳天皇と密接な関係を有していたことが窺われます。

 『日本書紀』によれば、懿徳天皇の皇后は天豊津媛命であり、これは邪馬台国の宗女台与、すなわち小豊姫命(=若宇加乃女命=豊受姫命)に比定しうる存在です。また、崇神天皇の時代として『記紀』に集約されている諸事績の中に、懿徳天皇の治世に属する内容が含まれていると想定していることは、すでに著書で述べたとおりです(2)。

懿徳天皇(彦火明命の投影の一人=饒速日尊)―開化天皇―賀茂別雷大神
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天豊津媛命(若宇加乃女命=豊受姫命=台与)

 籠神社の秘伝によれば、賀茂別雷大神と彦火明命は異名同体であるとされます。以上の考察から導かれる結論として、太陽神である饒速日尊、すなわち彦火明命の神霊を現人神として火継した人物の神名が、賀茂別雷大神として称されたと理解することができるでしょう。さらに、籠神社では賀茂別雷大神の御祖神である下鴨神社の神を併祭しているといいますが、これもまた、宗女台与とその子孫に連なる系譜を背景とする祭祀構造の表れであると考えられます。

 籠神社の祭祀もまた、大元神である「気」の神を奉斎する天照大神と豊受大神に対して祈りを捧げることを、その根幹としていると考えられます。

 籠神社から倉稲魂(うかのみたま)を勧請したと伝わる陸奥国の駒形神社は、これは「稲」の神霊そのものではなく、その根源となる「気」の大元神を勧請したと解釈することができます。
 勧請元である籠神社では、宇迦之御魂大神の名を用いませんが、駒形神社の由緒を踏まえると、伏見稲荷大社と籠神社は同一の大元神を奉斎していると考えられます。さらに、その社家である海部氏と秦氏とは、系譜を遡ることで近しい同族関係にあったことが知られます。

 大元神を祭る下社は、秦氏の所伝では大元神である宇迦之御魂大神ではなく、若倉稲姫魂命を祭神としていました。一連の考察から導かれる結論は、現人神として大元神の霊威を火継ぎし、大元神へ祈りを捧げていた人物が台与(=豊受姫命)であったという点です。その人物を神格化して称した名が若倉稲姫魂命とされ、下社の祭神として当てられたとみて差し支えないと考えられます。これは秦氏の縁者であったがゆえに、秦氏所伝では下社が宇迦之御魂大神ではなく、その奉斎者である若倉稲姫魂命を祭神に据えたのだと理解できます。

 崇神天皇の時代には、四道将軍が各地に派遣され、諸国で神主家が入れ替わったことは、これまでにも繰り返し確認してきたところです。以上の考察から、伏見稲荷大社の社家である秦氏も、この入れ替えの枠組みに該当すると考えて差し支えありません。
 また、物部氏系の天皇の皇后が若宇加乃女命(=豊受姫命=台与)であったと伝えられています。権力の構築には物理的な支配力だけでは不十分であり、威信を裏づける血統的正統性が不可欠であったため、姫の血脈が求められたと考えられます。

 伏見稲荷大社の由来は、『山城国風土記逸文』が文献上の初出とされます。そこでは、秦公伊呂具が驕り、餅を的として弓を放つと、餅が白鳥に化して山の峯へ飛び去り、その地に稲が生じたと記されています。
 これを一連の考察と照らし合わせると、物語で白鳥とされた存在は、実際には猿田彦大神を指し、弓を放った人物は伊呂具の先祖である、神武天皇の使者=八咫烏を暗示したものとみられます。
 猿田彦大神が、物部氏出身の崇神天皇以前に天照大神を奉斎していた一族の男神を象徴する別称であることを踏まえるなら、ここに描かれた説話は、前王家を武力によって討った征討譚を象徴的に物語ったものと理解できるでしょう。(20251205)


(1)・(2)『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022

参考文献
『日本書紀』監訳:井上 光貞 訳者:川副 武胤 佐伯 有清 中央公論新社
『古事記』 中村啓信=訳注 株式会社KADOKAWA
『風土記 上下 現代語訳付き』 中村啓信=監修・訳注 角川ソフィア文庫
『稲荷大社由緒記集成 [第2] (祠官著作篇)』伏見稲荷大社社務所 1953
『稲荷の信仰』 伏見稲荷大社 伏見稲荷大社 1951
『稲荷明神 : 正一位の実像』松前健 編 筑摩書房 1988.10
『元初の最高神と大和朝廷の元始』 海部穀定 おうふう
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図 日本民族の魂のふるさと・丹後丹波の古代の謎 改訂增補版』 海部光彦 元伊勢籠神社社務所 2012.9

参考サイト
(1)     伏見稲荷大社(https://inari.jp/



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