→伏見稲荷大社の大元神と男女一対の祭祀。宇迦之御魂大神と佐田彦大神、大宮能売大神。【伏見稲荷大社一】
→白鳥の神霊と飛鳥の由来。稲魂の大歳神と猿田彦大神【伏見稲荷大社二】
上記の続きとなります。
6・賀茂別雷大神とその祖父、八咫烏こと賀茂建角身命
飛鳥田神社は『延喜式』「神名帳」の諸本には「一名、柿本社」とあることから、京都市伏見区横大路柿ノ本町の飛鳥田神社が、その比定社の中で有力視されています。その祭神は、別雷神(わけいかづちのかみ)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。比定社の一つである、京都市伏見区横大路天王後に鎮座する田中神社も、別雷神に由来すると伝わります。
賀茂別雷大神は、京都市に鎮座する賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ・京都府京都市北区上賀茂本山)の御祭神であることはよく知られており、同社は別称として上賀茂神社とも呼ばれます。
また、京都にはこれと対をなす名を冠した下鴨神社(京都府京都市左京区下鴨泉川町)があり、こちらでは賀茂別雷大神の母と祖父が祀られています。下鴨神社は、正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といい、西殿には賀茂別雷大神の祖父にあたる賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を、東殿には母神である玉依媛命(たまよりひめのみこと)を奉斎しています。
『山城国風土記逸文』には、いわゆる丹塗り矢伝説として知られる物語が記されています。これは、賀茂建角身命の孫にあたる賀茂別雷大神の出生に関わる説話です。物語は、賀茂建角身命の娘である玉依日売が川遊びをしていたところ、川上から一本の矢が流れて来たことに始まります。姫はその矢を拾い、家に持ち帰ったといいます。
家に戻った姫は、矢を寝床に挿し置きます。すると、やがて姫は身ごもり、男子を生んだとされ、その男子こそが賀茂別雷大神です。さらに、その父神は乙訓郡の社に鎮座する火雷命であるとも記されています。
賀茂別雷大神の祖父である賀茂建角身命は、『新撰姓氏録』において山城国神別、賀茂県主・鴨県主らの祖とされる人物であり、「天八咫烏(あめのやたがらす)」の号を持っていたと伝えられています。八咫烏は『日本書紀』によれば、神武天皇が紀伊国の熊野で進退窮まった際、天皇の前に姿を現した神で、天照大神から先導者として派遣されたものとされています。また、神武天皇はこの八咫烏の導きによって、現在の奈良県宇陀市にあたる菟田下県(うだのしもつあがた)に到着したと記されています。
「記紀」によれば、賀茂建角身命が案内したとされる神武天皇は、瓊々杵尊の曾孫にあたります。瓊々杵尊は、女神である天照大神の孫とされますので、神武天皇は少なくとも天照大神より後の世代の人物となります。繰り返しになりますが、『海部氏勘注系図』に記される九世孫の日女命は、女神・天照大神に比定されると考えられます。そして系図には、日女命の孫の世代に建角身命の名が記されています。
賀茂建角身命は『山城国風土記逸文』において、「日向の曽の峯に天降りされた神」と記されています。この「日向の曽の峯」とは、『日本書紀』が記す「日向(ひむか)の襲の高千穂峰」に相当します。ここは瓊々杵尊が天降った地とされますので、賀茂建角身命と瓊々杵尊は、天照大神の孫世代で揃うことになります。
また、分国以前の日向国には阿多(あた)という地名がありますが、『海部氏勘注系図』には、この地名と同じ表記を持つ阿多根命が建角身命と同世代として記されています。建角身命の降臨地が日向国であり、さらに系図上にも日向の地名(阿多)を含む人物が同世代に現れることを踏まえますと、阿多根命が八咫烏こと建角身命に該当する人物であると考えることができます。
女神、天照大神(「勘注系図」で九世孫、倭迹々日百襲姫命世代)→賀茂建角身命(=八咫烏、阿多根命、十一世孫世代)
賀茂建角身命は『山城国風土記逸文』に記され、その地で祀られていた人物です。『海部氏勘注系図』には、賀茂建角身命に該当すると推定される阿多根命の二代前に、その名に「山城」という地名を内包した玉勝山背根子命(たまかつやましろねこのみこと)が記されています。
このことを踏まえますと、「日向の曽の峯に天降りされた神」とされる一族の移動経路は、本拠である近畿から九州へと向かったと考えられます。
玉勝山背根子命(高天原)→賀茂建角身命(日向降臨)


