『神武天皇と卑弥呼の時代』をお読みくださった読者の方より、YouTubeのコメントより、ご質問をいただきました。著者はまだまだ伝えるのに力量が及ばないので、このようなご質問は大変ありがたいです。
『日本書紀』には崇神天皇五年に疫病が流行り、国民の半分が亡くなったと、記されます。その翌年に宮中にいた天照大神と日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)がそこから出ます。国内の災いは、大物主神の意とするところとなるのですが、宮中で祭られていた天照大神とは孝昭天皇元年に三輪山に降臨した神なので、これは同じ神の祟りとなります。この天照大神、日本大国魂神を奉じた王朝を倒した崇神天皇では、祭れないために祟れたと表現されていると思われます。
【@AwaNukoさまからのご質問。】
「今、本を読んでいるのですが、わからない部分をお教えいただきたいのです。
第三章の「三代分が追加されている理由」 の最後に、「なぜ、崇神天皇の宮中に・ ・天照大神が奉置されると、大いに祟るのかは、もはや皆様には解説不要でしょう。」と書かれております。
すみません、 解説ないので、 全然わからず、ここで、読むのが止まっております。それと、この前王朝の天照大神は、 男神ですか?女神ですか?以上、よろしくお願いします。」
【著者からの回答】
コメントありがとうございます♪本を読んでいただきまして本当に感謝です。
崇神天皇は物部氏の天皇なので、「孝」が接頭する天皇家とは王家が異なるということです。
孝霊天皇の時代に分裂がありその後は、卑弥呼、台与と続きますが、この台与と所謂崇神天皇が婚姻したと伝わります。
孝昭天皇から続く、この最初の王朝は、三輪山に降臨した天照神(天照大神、陽神、和魂、男神)と、瀬織津姫神(陰神、荒魂、女神)を夫婦で火継して宮中で、大元神(国之常立神、天之御中主神、豊受大神)を奉斎していたと思われます。
その孝昭天皇から続く王朝を、崇神天皇の物部氏の王朝が禅譲のような形で、入れ替えたのですから、崇神天皇の宮中で祭ると祟るとなるということです。それを鎮めるために、饒速日命の男系になった大田田根子命が神主になります。この崇神朝の祭司権の確立の構図が、四道将軍の派遣として、『日本書紀』に記されるものです。これが考古学的にいうところの前方後円墳体制の大和から地方への展開と繋がります。
因みに女神の天照大神は、籠神社宮司であった海部穀定氏によれば、倭迹迹日百襲姫命が有力な比定者となります。そうすると、その孫が天孫降臨となりますので、日向国への降臨、その後の神武東征はこの世代より後となります。
倭迹迹日百襲姫命(女神の天照大神)→日向三代→神武東征

瀬織津姫命の物語の動画を観ていただけましたら、ご理解の助けになると思います。
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