1・桃太郎のモデルの吉備津彦命
律令国である備前、備中、備後国は、天武朝以前は吉備国として一つの国を成していましたが、その後、三カ国に分割され、更に七一三年(和銅六年)に北部六郡を、備前国より割譲して、美作国が新設され、元の吉備国は四カ国となりました。
各国には一宮と称される社があり、備中国は吉備津神社(岡山県岡山市北区吉備津)、備前国は吉備津彦神社(岡山県岡山市北区一宮)と、何も吉備津をその名に冠しており、現在の祭神も共に大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を主祭神とします。この大吉備津彦命は、『日本書紀』に四道将軍の一人の五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)として描かれる人物と同一視され、後世に「鬼退治」の御伽噺で有名な桃太郎のモデルとされます。
備中国の吉備津神社は、三備一宮を称し、この三備とは、備前、備中、備後の総称ですが、その他二カ国の一宮は、吉備国の分国後に吉備津神社より分霊をして創建したと伝えているために、こちら側では、その様に称しています。この内、備後国に鎮座する一宮の吉備津神社(広島県福山市新市町宮内)は、社伝によると、その創建時に備中国の吉備津神社より、分霊を賜ったと伝えています。
記録上でも、『延喜式神名帳』に挙がるのは、備中国の吉備津神社のみであり、名神大社でもあったことから、三備一宮の中で、最も格式が高い神社であったのが窺われます。
備中国一宮の吉備津神社と、備前国一宮の吉備津彦神社は共に、吉備中山の麓に鎮座します。両社は、数キロメートル以内と、接近して所在していますが、その由来は、社伝によるとどちらも、大吉備津彦命の屋敷跡に創建した物と伝わります。
主祭神の五十狭芹彦命は、一般的には、『日本書紀』の崇神天皇紀に大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波に遣わしたと記される、四道将軍の内の、西道に遣わされた吉備津彦命だといわれています。
この四道将軍は、遠方はまだ、崇神天皇の王化に慣れていない、意訳すれば「服属」していないために、派遣されたとなります。吉備津神社などの社伝によると、吉備津彦命は、吉備の地で跋扈していたという朝廷側に従わない賊の温羅を討つために西道に派遣されたといい、この賊とされた人物は百済の王子とも伝わります。
2・「吉備冠者」温羅命と五十狭芹彦命の戦い
伝説の概略を『吉備津神社』を参考に記すと、温羅は備中国の新山に居城を構え、さらにその傍の岩屋山に楯を構えて、西国から都へ送る、貢物を送る船や婦女子を掠奪したので、住人は彼の居城を恐れて「鬼の城」(きのじょう)と呼んだといいます。そこで、朝廷は五十狭芹彦命を当地に派遣し、吉備国に下った五十狭芹彦命は、まずは「吉備の中山」に陣を敷き、西には、現在の楯築遺跡の地である、片岡山に石楯を築いて防戦の準備をしたといいます。
その後に両者が戦うことになり、互いに矢を放ちますが、両者の矢は空中で噛み合い海中に落ちたといいます。その地が現在の矢喰天神社(やぐいてんじんしゃ)(岡山市北区高塚)(別名、矢喰宮)の鎮座地だと伝わります。
次に吉備津彦命は、千鉤の強弓をもって、一時に大矢二筋をつがえ発したところ、その一矢は前と同様に、喰い合って海中に飛び入り、もう一方の矢は、温羅の左眼に命中し、そこから流れた血は流水の如く迸りました。その様子がその名の語源となった川が、現在の血吸川だといいます。
敗れた温羅は雉となって山中に隠れ、吉備津彦命は鷹となってこれを追い、次に温羅は鯉と化して血吸川に入り、逃れようとしますが、吉備津彦命は鵜となり、これを噛みあげ捕らえたといいます。その由来が元になっている鯉喰神社(こいくいじんじゃ)(倉敷市矢部)では、それを祭るために社が建立されたと伝わります。
捕えられた温羅は吉備津彦命に降り、自らの称号である「吉備冠者(きびのかじゃ)」を吉備津彦命に献じ、その後から吉備津彦命は吉備津彦命に改称されたといいます。
吉備津彦命は温羅の頭をはねて串にさして曝しましたが、何年経っても大声を発して唸り響いたため、部下の犬養武(いぬかいのたける)に命じて、首を犬に食わせます。その後も首は髑髏になっても、吠えは止まらず、吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の窯の下に八尺を掘って、これを埋めましたが、それは十三年間経っても唸りは止まなかったといいます。その後のある夜に、吉備津彦命の夢に温羅の霊が現れて
「吾が妻、阿曽郷の祝(はふり)の娘阿曽姫をして、神饌を炊がしめよ、若し世の中に事あれば竈の前に参り給はば幸あれば裕(ゆた)かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた(『吉備津神社』藤井駿)
これが有名な吉備津彦神社の鳴釜神事(なるかましんじ)の起こりとなります。また、同社の御釜殿(おかまでん)は、温羅の霊を祭り、それは「丑寅みさき」というと伝わります。
3・吉備津神社と大山祇神社の祭主
温羅と吉備津彦命の戦いは垂仁天皇、崇神天皇、孝元天皇の時代と幾つかの説があります。吉備津神社の社伝では垂仁天皇時代と伝えますが、それぞれは恐らく、崇神天皇時代は、五十狭芹彦命が『日本書紀』の崇神天皇紀で記されることから、孝元天皇の時代は五十狭芹彦命がその兄弟であることから、その時代として伝わったと思われます。吉備津神社の社伝となる垂仁天皇時代は、『日本書紀』に新羅の王子の来日が記され、半島の王子という点では、百済の王子とも伝わる温羅命とも重なるからとなるのでしょう。
実際の五十狭芹彦命の活躍した世代は何処になるかを推論する手掛かりとなるのが、大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)の資料に残る伝承です。大山祇神社の由来を記した古文書には幾つかあり、その中の『三島宮社記』には、その祭主になった小千命(おちのみこと)の父は、五十狭芹彦命だと記されます。
『三島宮社記』によれば、大山祇神社の祭神の大山祇神は第七代孝霊天皇の夢に大己貴神が現れ、「面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)大山祗神」の神を祭れば、五穀成就、天下泰平になると誨(おしえ)があり、それらの神々を大殿に奉斎したといいます。
その後、三代降った崇神天皇の時代には疫病や災害が多かったと『日本書紀』は記します。同書によると、その原因は大神神社の大物主神の祭り方にあり、それを解消するには、その子の大田田根子を祭主にして、吾を敬い祭れと、大物主神から神誨があったとあります。これと同様の記事が『三島宮社記』にも載り、「社記」では続けて、五十狭芹彦命を三島之小汀に遣わして、「面足尊惶根尊大山祗神」の神の祭主にすれば五穀成就、百姓安寧になると、崇神天皇の夢で教えがあったと記します。
五十狭芹彦命は所謂四道将軍として西道に派遣されたと『日本書紀』は記しますが、『三島宮社記』でも、それと同様の事績を載せます。五十狭芹彦命は、神誨から三年を経て軍備が整ったため、まずは吉備国で従わない者を征伐し、その後に、吉備の児島を発ち、二名州(ふたなしま)(現在の四国)の風早(かざはや)浦に到り、行宮を起こして住んだと記されます。そして五十狭芹彦命はこの地でも、「命に逆らうものは誅して、帰順する者には褒美を加えた」といいます。
その賞罰を終えると、大山祇神の裔の伊豫津彦命であり、風早国分彦(かざはやくにわけひこ)と名乗る、一人の老人が現れます。国分彦は、「天皇の御子が、三島大神を祭り、この国を治めることを欲していると聞いて、家に伝わる天瓊矛を献上しに参った」といいます。それを聞いた五十狭芹彦命はとても喜び、共に協力して三島大神を祭ろうと提案すると、国分彦も「仕え奉らん」と答え、そして国分彦が導人となり、瀬戸之浦に渡り三島大神を敬祭したといいます。五十狭芹彦命は、風早浦に帰り、宮室を建てて留まり、旦夕(朝晩)に大神を、敬祭し、遂には国分彦の女の和気姫を娶って妃とし、小千命(おちのみこと)が生まれたと記します。
4・プレ吉備津彦命の温羅命
大山祇神社の由緒を記した『三島宮社記』をみると、『日本書紀』と同様に崇神天皇の時代は災害があったといいます。その原因を八十萬神(やおよろずのかみ)に問うと、それは大物主神の意であり、これを我が子の大田々根子を以て祭れば、国は安らかになると夢誨があったとされます。同書ではこれに続き、大山祇神を祭れば五穀成就、百姓安寧になるとも夢誨があり、この結果、三島太神の祭主に五十狭芹彦命が就くことになります。それを実行に移すために、『日本書紀』で四道将軍として描かれた五十狭芹彦命は、まずは吉備国を、その後に伊予も征伐したとなります。
この構図を纏めると、崇神天皇の時代に災害が多く国の平安を保てないのは、大和国では大神神社の大物主神が、伊予国では三島太神こと大山祇神が祟っており、それを鎮めるには、それぞれの我が子(子孫)に祭らせるとなり、それをこれに当て嵌めると大物主神は大田々根子命に、大山祇神は五十狭芹彦命にとなります。
その具体的な方法は、四道将軍を各地に派遣して、「命に逆らうものは誅して、帰順する者には褒美を加え」て平定することです。これは、力で各地方豪族を屈服させる、いわば出雲の国譲りの地方版を描いていることになります。
『三島宮社記』では、「誅したか、褒美を加えた」かのどちらかを行い、五十狭芹彦命は大山祇神裔の伊豫津彦命こと風早国分彦から、その家宝を譲り受けて祭主になります。この臣従した伊豫津彦命とは、在地の神の尊称であり、個人名が風早国分彦となるのでしょう。『三島宮社記』をみると、五十狭芹彦命はまず、吉備国でこれを行い、伊予国に入るわけですが、これを吉備津彦神社等の伝承に当て嵌めると、在地の神が温羅で、その尊称が吉備津彦命の称号といえる「吉備冠者」となります。
これの一つの傍証が、『作陽誌』にあります。吉備津神社には地元神を祭るという岩山宮があり、『古事記』で伊耶那岐命、伊耶那美命が国生みした、吉備の児島の亦名という建日方別を祭神としています。この社名に含まれる「岩」に纏わる伝承が、矢喰天神社に残っており、その伝えでは温羅命が吉備津彦命との戦いの際に、矢ではなく岩を投げたとあり、その岩が今でも境内にあると伝えています。このことからも、「岩山」の地元神とは先住の温羅命か、温羅命が奉斎していた神となるのではと思われますが、『作陽誌』によればこれは、吉備津彦命と吉備津彦姫命だといいます。
温羅と五十狭芹彦命との戦いは、「吉備冠者」こと温羅を誅した五十狭芹彦命がこれを襲名して、吉備津彦命になったと伝わります。そして、現地に新たな神祭りを導入するのではなく、それを奉斎していた一族の姫を嫁にして、その祭主に収まるという図式が上記の法則ですから、吉備津彦命の妻と伝わる人物がそれに該当することになります。
吉備津神社はかつて吉備五所大明神と称され、その内の内宮社(ないくうしゃ)には吉備津彦命の夫人の百田弓矢姫命(ももだゆみやひめ)が祭られています。姫の父親は大井神社の祭神で、百田大兄命と伝わります。『吉備津神社』等では、百田弓矢姫命の父は楽々森彦命(ささもりひこのみこと)と伝わりますが、この楽々森彦命は地元の土豪で、吉備津彦命の温羅討伐時には吉備津彦命側に味方をした人物です。
その戦いの伝説を記した『鬼城縁起(きのじょうえんぎ)』をみると、温羅との戦いで実際に活躍しているのは楽々森彦命であり、これを四道将軍の方策に当て嵌めれば、誅されたのが温羅であり、褒美を加えられたのが楽々森彦命側となるのでしょう。恐らくはどちらも本来の「吉備冠者」、つまりプレ吉備津彦命の血縁であったのではと思われ、その血を後世に残し、祭主一族になったのが吉備津彦命の后となった人物の御子ではと思われます。
5・五十狭芹彦命は大新川命
後に「吉備冠者」を受継ぎ吉備津彦命になった五十狭芹彦命は、次に伊豫津彦命こと国分彦の女の和気姫を娶って妃としたと伝えるのが『三島宮社記』でした。この五十狭芹彦命と、和気姫の御子は小千命と伝わり、『伊予国造家、越智姓河野氏系譜』(いよくこくぞうけ、おちせいこうのしけいふ)をみると、それは大新川命(おおにいかわのみこと)の孫と記されます。先述ですが、大新川命の妻は「孝霊天皇第三王女倭迹々日百襲媛児日古狭鳴女命」と記され、その子の大小市命の分注には、「母、孝霊天皇女倭迹々日百龍比女狭鳴女命」とありますので、孝霊天皇の孫世代当たりが、大新川命の世代となるのは検討済みです。
孝霊天皇(八世孫)―彦狭嶋命(九、十世孫)―日古狭鳴女命(十一世孫: 大新川命妻)―大小市命(十二世孫)―彦狭嶋王(十三世孫: 神武東征)
この系譜では大新川命の子が大小市命、その大小市命と和気姫(別姫)の子が乎致命(おちのみこと)だと伝えます。『先代旧事本紀』「国造本紀」には、物部連と同祖の大新川命の孫の子致命が小市国造(おちのくにのみやつこ)に定められたとあり、それに依れば、この地は物部氏の末裔が統治していたとなります。
饒速日命―数代略―大新川命―大小市命(妻: 和気姫)―乎致命
五十狭芹彦命は、『三島宮社記』を元に考えると和気姫を娶った人物となりますので、大小市命が該当しますが、系譜上で実際に、前の地主である孝霊天皇の一族の姫を娶り、祭主権を奪取し、男系を入れ替えているのは大新川命となりますので、その投影は二代に渡っていると考えられます。五十狭芹彦命は『日本書紀』では、孝霊天皇の皇子として描かれますが、その実態は饒速日命を先祖とする、大新川命がそれの一人として該当するとなります。
『三島宮社記』では、五十狭芹彦命は、吉備の児島を発ち、二名州の風早浦に到り、行宮を起こして住んだと記されました。これは現在の國津比古命神社(愛媛県松山市八反地)の事だと同書にあり、その祭神は饒速日命となりますので、これは五十狭芹彦命の男系の御祖神を祭っているとなるのでしょう。
6・「吉備の中山」と八大龍王神
五十狭芹彦命こと吉備津彦命は、引続き以前から祭られていた神の祭主権を移譲されたとみられますが、これが正しい推論なら、討伐をしたという温羅が奉斎していた神を引続き祭ったとなります。
吉備津彦命の、その祭祀は吉備の聖地といえる、吉備津神社の鎮座地でもある「吉備の中山」に対して行ったとみるのが自然です。この山には、五十狭芹彦命といわれる大吉備津彦命の陵墓に治定される、前期古墳に分類される中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)があり、それが正しいとすると、五十狭芹彦命は神体山に眠っていることになります。
「吉備冠者」こと吉備津彦命が奉斎したとみられる、「吉備の中山」の神とは、山頂に祭られている神がそれに当たるとみられますが、その最高峰の龍王山の山頂には現在、八大龍王神を祭る龍神社が鎮座します。旱魃時には吉備津神社正宮と、この社で雨を祈念したと伝わり、両社の深い繋がりを感じさせます。
吉備津彦命の前任の「吉備冠者」の温羅は、この「吉備の中山」山頂の八大龍王を奉斎していたとみられますが、これを示す資料が『吉備郡誌』です。そこには龍神社の祭神が記され、それは温羅命だとあります。要するにこれが伝えるところとは、祭神という温羅命自体は人物でありますから、「吉備の中山」の水神である龍神を、温羅命が奉斎していたとなるのでしょう。
八大龍王は、伊勢神道では豊受大神の化現した状態だといい、その姿で現れると、『伊勢二所太神宮神名秘書』等に載ります。豊受大神は、またの名を豊宇介皇太神といい、この「ウケ」とは万物の根源となる「気」の神であり、それが生命維持の物質とて現れた時には、食の神という御饌都神(みけつのかみ)と呼ばれるとなると思います。
また、伊勢神道では豊受大神の亦名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)といいますが、「吉備の中山」の龍神社の直下には「元宮磐座」があり、吉備津彦神社の話ではこれは天御中主神が御神威を発揚した磐座ともいいます。
この考えを追認できる神社が、化氣神社(けぎじんじゃ)(加賀郡吉備中央町案田)に残る由緒です。化氣神社は、元は気比神社と称しており、これは越前国一宮気比神宮と同じ社名となります。現在の祭神も社名と同様に、伊奢沙和氣神(いざさわけのかみ)を祭ります。神社由緒によると、吉備津彦命が、この地に来て、御食津神を祭ったといいますので、ここからも吉備津彦命が奉斎する神とは、御食津神であり、その根源である豊受大神と分かります。
7・温羅命は大国主命の末裔
最初の「吉備冠者」こと温羅命が奉斎していた神は、豊受大神であろうことをみてきましたが、この神が伊勢外宮の神であることは周知でしょう。『日本書紀』によれば崇神天皇の時代まで、宮中で天照大神と倭大国魂神を祭っていたといいますが、伊勢神宮の文書では、この倭大国魂神は豊受大神だとあります。
倭大国魂神が、天照大神のプロトタイプである太陽神の天照神と対になる神であることは、既に説明しました。『三島宮社記』によると吉備国征伐の後に向かった伊豫国で大山祇神を奉斎していたのは、孝霊天皇の末裔でした。これの始祖といえる孝昭天皇が三輪山で奉斎していたのが、太陽神の天照神と、水神の倭大国魂大神です。また、「吉備の中山」を水源とする瀧を祭る、吉備津神社末社の滝祭神社は瀬織津姫命を祭ますが、これは天照大神の荒魂となります。
このことからも吉備国で、「吉備冠者」を名乗っていた温羅命も、この一族に連なる皇族の末裔とみることが相応しいと思います。また温羅命は百済の王子とも伝わりますが、大山祇神社も同様に百済渡来の伝説を残すのは、この一族が海外から来たことを暗に示した物かもしれません。
天照大神と倭大国魂神は大神神社の神であることは再三となりますが、これは孝昭天皇の奉斎を起源とします。その大神神社の神は大物主神とされ、大己貴神の幸魂奇魂といいます。『日本書紀』において崇神天皇の統治が治らないのは、この神の意思とあり、『三島宮社記』で夢誨する神もまた、大己貴神となります。
吉備津神社の御釜殿(おかまでん)の竈の下には、温羅命の首が埋まるという伝説があり、鳴釜神事が行われます。この竈門で御食を炊く音で、吉凶を伝える神事を行う御釜殿の神霊は、温羅命の霊を祭り、これは「丑寅のみさき」といいます。
艮御崎神は、吉備津神社正宮内でも祭れております。吉備の各地にはこの御崎神社が多くの地で、鎮祭られ、その多くは大己貴命を奉斎することからも、鬼とされた温羅命とは、三輪神である大己貴命の血族の人物とみて良いでしょう。
8・物部氏の吉備津彦命と、出雲振根命の出雲神宝
『日本書紀』の吉備津彦命の西道派遣記事は崇神天皇十年に記されますが、それより数十年後の六十年には、出雲の神宝を天皇に献上させる記事が載ります。この時に派遣される人物として、矢田部造の遠祖である武諸隅(たけもろずみ)が記されます。『新撰姓氏録』には、大和国神別の矢田部氏は大新河命の子孫として載り、『先代旧事本紀』「天孫本紀」では、武諸隅は大新河命の子とされます。
饒速日尊―数代略―大新河命―武諸隅命(出雲神宝)→矢田部氏
大新河命は物部氏であり、吉備津彦命を受継いだ人物でしたが、出雲の神宝献上事件の顛末は、その保持者であった出雲振根は、吉備津彦と武渟河別に誅殺されたと『日本書紀』は描きます。この神宝を奪うとは統治権の移譲とみられます。
『海部氏勘注系図』の十二世孫には、建飯片隅命が記され、『三輪高宮家系』にはこの人物に「一名、建甕槌命」とあることから、この世代が神話として描かれる、出雲の国譲りの時代と思われます。
建甕槌命(『日本書紀』では武甕槌神)は、経津主神と共に出雲へ向かうわけですが、この経津主神は、物部氏の氏神である石上神宮の祭神の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)と、音が通じることからも、この一族を神話の世界で反映した神となります。
出雲臣の遠祖である出雲振根命は、吉備津彦命に最後は討たれたと描かれますが、これは「吉備冠者」を受継いだ、物部氏の吉備津彦命に討伐されたと考えていいと思います。(20250211)
参考文献
『吉備津神社』 藤井駿 日本文教出版株式会社 1973
『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022
『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社 2023
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