4・兵主大社の稲背入彦命
「宇佐家古伝」では景行天皇の兄弟という神武天皇と同一人物となる、稲背入彦命は滋賀県の兵主大社(野洲市五条)の縁起にも記される人物です。その兵主大社の縁起によれば、兵主大社の元は大和国の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)(奈良県桜井市穴師)で、景行天皇が兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦命に奉祭せしめたといいます。その後に景行天皇が近江国高穴穂宮に御遷都されるにあたり、この大神も穴太の地に御遷座になったとも伝えます。
景行天皇が兵主大神と仰いだという穴師坐兵主神社は、景行天皇宮の纒向日代宮伝承地の側に鎮座します。兵主神というのは、兵主大社の祭神をみれば分かるように八千矛神(やちほこのかみ)で、これは大国主命の異名となります。また、この神は大和神社(おおやまとじんじゃ)左殿の神でもあります。
その大国主命が奉斎しているのは三輪の太陽神で、その起源は孝昭天皇の奉斎を始めとします。要するに孝昭天皇は大国主命の一人なのでしょうが、この大国主命は、『出雲国風土記』に所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命(おおなもち)、『日本書紀』に国作大己貴命(くにつくりのおおあなもちのみこと)、葦原醜男(あしはらのしこお)で表記されるように、神武天皇に先行して葦原中国を治めた人物として伝わります。
何故、大国主命の異名である八千矛神の祭祀を景行天皇が自らではなく、稲背入彦命に託したかを考えると、それはその祭主に相応しいからだと想像できます。稲背入彦命は御諸別王の父として、彦狭嶋王と重なるので孝霊天皇の子の彦狭嶋命のその名を受け継いでいる者と想定されます。
孝昭天皇(大国主命、八千矛神)―孝安天皇―孝霊天皇―彦狭嶋命―稲背入彦命(「彦狭嶋」の襲名と八千矛神の奉斎)
上記のように系譜を繋げてみると、八千矛神を祭る資格は、稲背入彦命にあると考えるのは無理がない推論といえそうです。
兵主大社が近江国高穴穂宮の地から、現在地に移ったのは欽明天皇の御代に、兵主族の祖先の播磨別等が琵琶湖上を渡り、この地に移住するに際し大神を御遷座し、現在地で奉斎したといいます。また、播磨別の祖の稲背入彦命を乙殿神に祭り、祖神として鎮祭したといいます。
これとは別に神仏習合時の『兵主大明神縁起』で別伝を残し、それを意訳すると「養老二年に、金色の異光があらわれて、皆不思議に思っていたが、その中で信心深い五条播磨守資頼がいかなる神の影向かと、八崎浦に参向したところ不動明王が兵主太明神として降臨したという。白蛇となった兵主太明神は琵琶湖中を大亀に乗り、鹿の群れに護られながら湖を渡ったといい、後に白蛇の神霊を祭る兵主太神宮を創建した」とあります。縁起は不動明王が兵主明神であり、「白蛇」だといっています。「白蛇」といえば、大神神社の大物主大神の化身が頭に浮かびますが、これは大国主命の幸魂奇魂と、八千矛神の神格と被ります。
また、兵主太明神とされた不動明王は十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)の脇立で、その中尊の十一面観音菩薩は、三輪山の神宮寺であった「大御輪寺(だいごりんじ)」の御本尊です。
著者は垂仁天皇の一人は、天日槍命を仮託した人物と想定していますが、稲背入彦命はその垂仁天皇の娘を娶り、そちらの陣営に加担していると思われます。よく兵主神が天日槍命と混同されるのは、これが一因ではないでしょうか。
垂仁天皇―阿耶美都比売命
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稲背入彦命―兵主神の祭主一族(天日槍命の血を受継ぐ)
5・立山開山の佐伯氏と空海の祖
播磨別の始祖の稲背入彦命は、兵庫県姫路市の白国神社(しらくにじんじゃ)(白国)で祭られています。この白国神社の鎮座地の「白国」は、『播磨国風土記』によれば、「新良訓と名づけた理由は、昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿泊した」からだといいます。この新羅人に由来がある地を稲背入彦命の後裔が治めるのは、垂仁天皇が天日槍命を仮託した存在と想定した時には、その血脈故と考えるのは自然といえます。
検討では五十瓊敷入彦命と戦っていたのが豊城入彦命後裔の一族で、大新川命の一族といえました。また、この構図は物部氏対物部氏の構図となります。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」によれば、垂仁天皇時代に五十瓊敷入彦命は、石上神宮の神宝を掌ったといいますが、同じ天皇世代に大新河命も石上神宮を祭ったといいます。同時代に二人の人物が、物部の本宮といえる、石上神宮を祭る構図となるのは、この対立構造を表しているのかもしれません。
また『先代旧事本紀』「天孫本紀」をみると、大新河命は、まずは大臣となり、その後に改めて大連となったといい、この大連の号は、このとき初めて起こったとも記されます。「大連」になるとは天皇に臣従したとなりますので、この任命は、検討からは垂仁天皇側についたために付与されたのではと想像したくなります。
大新川命の一族に稲背入彦命がいると検討ではなり、また、富山県の新川郡は大新川命のその名を由来とするといいました。その大新川命の名を帯びるという、新川郡にそびえるのが霊峰立山です。
立山開山は『和漢三才図会』によれば、文武天皇の大宝元年に、帝の夢に阿弥陀が出現し「佐伯有若(さえきありわか)を越中の国司にすれば、国家安泰」と告げたのを始まりとするといいます。この越中の国司になった佐伯氏は、『下新川郡史稿』によれば稲背入彦命を祖とし、現在でも雄山神社中宮祈願殿(おやまじんじゃちゅうぐうきがんでん)(富山県中新川郡立山町芦峅寺)で祭られています。
その後、立山は阿弥陀如来と不動明王のお告げにより佐伯有若の息子の佐伯有頼(さえきありより)によって開山されたと伝わります。また、お告げをした阿弥陀如来と不動明王は、それぞれ伊邪那岐神と天手力雄神の本地だといいます。
越中国大新川郡(大新川命を由来)
越中国は稲背入彦命の後裔の佐伯氏が治めれば、国家安泰
ここでも大新川命と稲背入彦命は重なる存在となっています。余談にはなりますが、『弘法大師略頌鈔(こうぼうだいしりゃくしょうしょう)』によれば弘法大師空海の出自は、佐伯直で、稲背入彦命を祖とするといいます。
6・伊予国の武国凝別皇子と武国皇別命
検討から大新川命は、垂仁天皇側についていたと推察されました。『伊予国造家、越智姓河野氏系譜』では、この大新川命の子の大小市命が、その家を継いでいましたが、その次代の乎致命の分注には意味深なことが記されます。
住伊予国小市郡 小市国造
伊与十城別王
実者景行帝皇子日本武尊之御子依詔為嗣
実は景行天皇皇子の日本武尊の御子が、詔に依り嗣となった。(著者大意)
上記される十城別王(ときわけのみこ)自体はもう少し後の世代なのではと、著者が思うのは別として、これが正しいのなら、越智家は大新川命の子孫から、景行天皇の皇子に男系が変わったとなります。
世代は下がりますが、これは海部家の丹波國造大倉岐命(たにわのくにのみやつこおおくらきのみこと)の代でも、景行天皇の子息の大枝王(おおえのみこ)に男系が変わっているのと同様の構図となります。景行天皇の七十余の御子は、国郡に封じられて諸国の別となり、別王となったというのは、複数の世代、各豪族家で、この「男系塗り替え」が行われたことの伝承とみることができるかもしれません。
ここで一つ「勘注系図」の話をすると、このように「勘注系図」は自己にも不都合なことを載せていることから、その信頼性は高いと思います。系図末に「本記一巻者、安鎭於海神胎内、以極秘、永世可相傳者也」とあり、これを意訳すれば「門外不出の極秘」となりますが、それの意味するところは重いと著者には感じられます。
再三みてきましたがこの「男系塗り替え」は各家、各時代で起こってきました。これは非征服者の姫を娶り、次代で家を相続するシステムですが、これは天皇家の「万世一系」とは相反することであることに気づきます。天皇家の「万世一系」は歴史的事実とは合いませんが、その思想の創出の意図は、この「男系塗り替え」システムの大王家への適用の防止にあったと考えられます。
『伊予国造家、越智姓河野氏系譜』に話を戻すと、『日本書紀』で伊予別君(いよのわけのきみ)之始祖とある十城別王の前世代には、武国凝王(たけくにこりのみこ)が勅令で伊代国に下向したとあります。これは大新川命の子の大小市命の分注にあります。
大新川命―大小市命(武国凝王、伊代国に下向)―乎致命(十城別王が嗣)
この武国凝王は恐らく、景行天皇の皇子とされる武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)か、「別」の字からその親のどちらかと思われます。再三ですがこの系譜の一族は、九州へと進出し、「宇佐家古伝」では、宇佐の三女神を奉斎する姫を娶った一族でした。
この武国凝別皇子は、『日本書紀』では伊予国の御村別(みむらわけ)の始祖、『先代旧事本紀』「天皇本紀」では、筑紫水間君祖(つくしのみぬまのきみのそ)とあり、また『日本書紀』「神代上」では宇佐嶋の三女神は筑紫水沼君らが祭る神とありますが、これは一連の検討と矛盾しません。
大新川命(伊予国造)―大小市命→宇佐の三女神奉斎の姫を娶る→その子が家を嗣ぐ
武国凝別皇子(伊予国の御村別、筑紫水間君祖、宇佐嶋の三女神は筑紫水沼君が奉斎)
これも再三になりますが、大新川命の一族と稲背入彦命は重なる存在でした。『先代旧事本紀』「天皇本紀」には、この稲背入彦命と同一人物か、または「別」の字から、その子が疑われる大稲背別命(おおいなせわけのみこと)は、御杖君(みつえのきみの)の祖とあります。
一方で同書には武国凝別皇子と類似する武国皇別命(たけくにすめわけのみこと)は、伊与御城別(いよのみきわけ)と添御杖君(そうのみつえのきみの)祖とあり、どちらも御杖君の祖となります。
大新川命の一族(伊予国造)≒武国凝別皇子(伊予国の御村別)、武国皇別命(伊与御城別、添御杖君)≒大稲背別命(御杖君: 稲背入彦命から別れたの意味か)
このように大新川命の一族と稲背入彦命は、「武国」の一族を中心点に置いても類似することが分かります。
一連を纏めると、五十瓊敷入彦命側の物部氏と、垂仁天皇側に付いた物部氏との対立が想定出来ますが、これは五十瓊敷入彦命側からみれば一方の物部氏は「背」いている構図となります。大新川命と重なる稲背入彦命の名前には本来、「稲瀬」の字を当てられるのが妥当でしょうが、それを「稲背」に変えられていると思われるその理由は、これの比喩と想像できます。
五十瓊敷入彦命(崇神天皇側) 対 垂仁天皇、景行天皇 稲背入彦命連合
大新川命の後裔は各地で国造となり広大な地域を統括していると思われ、また、石上神宮や、兵主神を奉斎しているとなると、これは景行天皇の準大王ともいえる地位を占めた人物といえると思います。
(20241103)
引用サイト
(1) 天璽瑞宝 古代日本の物部氏(https://mononobe-muraji.blogspot.com/p/index.html)
参考文献
『中主町文化財調査報告書 第22集 (中主町内古文書目録 社寺編 1)』 中主町教育委員会 編 中主町教育委員会 1989
『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022
『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』佐藤洋太 新潮社 2023