1・御諸別命の父の稲背入彦命
「記紀」でいうところの所謂、神武東征で宇佐に入った神武天皇は、「宇佐家古伝」では、御諸別王の父と伝わりました。この御諸別命(みもろわけのみこと)は、『新撰姓氏録』によれば、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)の時代に針間別となったと記されます。
神武天皇(大新川命の一族、彦狭嶋王)―御諸別命
先述の検討では、御諸別命の父は神武天皇であり「大新川命の一族、彦狭嶋王」ともいえました。しかし、針間別の祖を伝える『新撰姓氏録』では、その父は稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)だと記されます(『新撰姓氏録』「右京皇別佐伯直」)。
稲背入彦命(景行天皇世代)―御諸別命(稚足彦天皇時代に針間別)
これらを単純に解釈すれば、神武天皇と稲背入彦命はどちらも御諸別命の父ですから同一人物と考えられます。
稲背入彦命(皇子)は『日本書紀』によれば、景行天皇の皇子で播磨別の始祖として記されます。先ほどの『新撰姓氏録』では、御諸別命は成務天皇時代に針間別となったと伝わりましたので、その父は景行天皇世代となります。稲背入彦命の父は景行天皇と『日本書紀』は伝えましたので、ここに一代の矛盾が生じます。
景行天皇―稲背入彦皇子(『日本書紀』によれば成務天皇世代、『新撰姓氏録』によれば景行天皇世代)―御諸別命(成務天皇世代)
『日本書紀』は景行天皇の皇子は八十人いて、その内の日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚足彦天皇、五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこと)以外の七十余の御子は、国郡に封じられて諸国の別となり、別王となったといいます。これが事実なら、平安時代に各氏族の出自を記した『新撰姓氏録』では、景行天皇を祖とする一族が最多でありそうですが、実際はそうではなく、孝元天皇を祖とするものが最多となりますので、これは伝説めいたものと思われます。
稲背入彦皇子の父は八十人の皇子を持ったという景行天皇なのか、それとも『新撰姓氏録』が伝えるその一代前の垂仁天皇世代の人物の、どちらが正しい伝えなのでしょうか。
『日本書紀』
景行天皇―稲背入彦皇子(成務天皇世代)―御諸別命(成務天皇世代)
『新撰姓氏録』
垂仁天皇世代―稲背入彦皇子(景行天皇世代)―御諸別命(成務天皇世代)
2・菟狭津媛命と阿耶美都比売命
「記紀」では、景行天皇の父は垂仁天皇と伝わります。『古事記』によると、垂仁天皇には阿耶美能伊理毘売命(あざみのいりひめのみこと)との間に阿耶美都比売命(あざみつひめ)がいるといい、この垂仁天皇の娘の阿耶美都比売命の配偶者が、稲背入彦皇子と、とてもよく似た名前の稲瀬毘古王(いなせびこのみこ)だといいます。
垂仁天皇―阿耶美都比売命
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稲瀬毘古王(稲背入彦皇子と同一人物の可能性)
阿耶美都比売命を娶ったという稲瀬毘古王と稲背入彦皇子が同一人物だと伝える書が、『但馬故事記』です。そこには「稲瀬入彦命は垂仁天皇皇女の阿邪美都毘売命を娶り、御室別命を生む」と記されます。ここから、稲背入彦皇子と稲瀬毘古王は同一人物であり、その父は垂仁天皇世代で、稲背入彦皇子自体は景行天皇世代だとも判明します。因みに、『但馬故事記』では稲瀬入彦命の子は御室別命となっており、御諸別命と一字異なります。この違いは、御諸別命の「御諸」は三輪山を指すのではと思われ、その三輪山は「三室山」とも呼ばれますので、これは同一を指すと考えられます。
稲背入彦皇子(景行天皇世代)―御諸別命(成務天皇世代)
「宇佐家古伝」では、御諸別命の父は神武天皇であり、母は菟狭津媛命(うさつひめのみこと)でした。また、「宇佐家古伝」によると、菟狭津媛命が神武東遷に随伴して安芸国の多祁理宮に逗留していた時に、近くであった伊都岐島に、菟狭津媛命の祖神の市杵島姫命(原文はイチキシマヒメノミコト)を奉斎したのが後の厳島神社の始まりだといいます。現在の厳島神社では市杵島姫命の他に田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)の宇佐三女神を祭りますが、これは大神神社の神の后神といえるのは既述です。ここから、その子の御諸別命の「御諸」とはその親から引き継いでいる名前と考えられます。
菟狭津媛命(三輪山の血脈)―御諸別命
「宇佐家古伝」では、菟狭津媛命が亡くなった後に神武天皇も多祁理宮で亡くなったと伝えます。特筆すべきはこの後に、神武天皇の兄である景行天皇が継いだと記される点です。「宇佐家古伝」では、御諸別命の父は神武天皇で、『新撰姓氏録』では稲背入彦皇子の子でしたが、これは景行天皇世代に当たりました。
稲背入彦皇子は『日本書紀』では景行天皇の子とされていましたが、この伝承からも、やはり皇子は景行天皇の子ではなく、実際は景行天皇世代が正しいといえそうです。また、「宇佐家古伝」では景行天皇は神武天皇の兄と伝わりますが、これも稲背入彦皇子が垂仁天皇の娘の阿耶美都比売命を娶っていることを考えると、その蓋然性は高いといえるのではないでしょうか。
稲背入彦皇子(神武天皇:景行天皇世代)
景行天皇(神武天皇の兄)
3・「アザミ」の姫と豊比咩命の祭祀
神武天皇と稲背入彦皇子が同一人物となると、その配偶者の菟狭津媛命と阿耶美都比売命もまた同一人物の可能性が浮上します。阿耶美都比売命の母の阿耶美能伊理毘売命は所謂丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)こと旦波比古多々須美知宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)の子だと『古事記』はいいます。
阿耶美都比売命と、その母の阿耶美能伊理毘売命のその名に注目すると、そこには共に、「阿耶美」(あざみ)が内包されているのに気づきます。この二人は、「アザミ」の姫となりますが、「記紀」が伝える、複数の人物名は地名がその由来になっています。例えば豊城入彦命を考えた場合でも、その名前は、豊国に入った皇子と、地名と繋がりがあることに気づきます。これを「アザミ」の姫に当てはめた場合は、姫は何処の地名をその名に内包されたとなるのでしょうか。
古代律令制における行政区画の郷名を載せている『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)には、「アザミ」の姫の、「アザミ」と音が通じる地名が、二例記されています。それは豊前国仲津郡の呰見(あざみ)郷と、参河国碧海郡(へきかいぐん)の呰見郷です。この内で注目したいのが、阿耶美都比売命と同一人物が疑われる菟狭津媛命がいた豊国内にある呰見郷です。もう一方の参河国碧海郡は、豊城入彦命の後裔氏族の東国経営の結果、三河国には「豊」の地名が多いことと関係していると思われますので、これは豊国からの遷移とみてよいのではないでしょうか。
呰見郷がある豊前国には、呰見川が流れており、別名を祓川(はらいがわ)といいます。宇佐神宮で行われる放生会(ほうじょうえ)の際に、朝廷より「官幣を奉安」されるのが祓川沿いに鎮座する豊日別宮です。
放生会では、古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)で「火明神降」とされる、宇佐神宮の御正体になる宝鏡を鋳造し、一度、豊日別宮の神殿へ納めます。その後に祓川で禊をして、和間浜へと向かい、最後に宇佐神宮へ納めます。このように豊日別宮と呰見川(祓川)は、宇佐神宮と密接な関係にあります。
宇佐神宮の比売大神の御正体となる宝鏡が納められる豊日別宮では、豊日別命(とよひわけのみこと)を祭りますが、この神は『古事記』で、伊耶那岐命、伊耶那美命の国生みの際に「豊国は豊日別という」とされた神です。この豊日別は「豊前州田川郡龍之鼻権現縁起」では、「豊比咩」であると記されますので、豊日別命とは豊比咩命だということになります。
豊日別命=豊比咩命
豊比咩命は宇佐神宮の比売大神となるのは説明済みです(1)。今一度簡単に説明すると、二つの八幡宮は同じ神を祭るとなりますが、古宮八幡宮では豊比咩命、応神天皇、神功皇后を祭り、宇佐神宮では比売大神、応神天皇、神功皇后を祭ります。この対応関係から、同じ神名である応神天皇、神功皇后を除くと、豊比咩命と比売大神が残りますので、これの同一が判明します。
豊日別宮の祭神は豊比咩命=比売大神
「宇佐家古伝」では菟狭津媛命は宇佐の三女神とされる一人の市杵島姫命を奉斎しており、恐らくその総称の比売大神も奉斎していた姫でしょうから、同一人物が想定される阿耶美都比売命もその祭祀のために、比売大神こと豊比咩命を奉斎していた姫となるのではないでしょうか。
その祈りを捧げた地は、阿耶美都比売命に内包される「アザミ」川が流れ、その水を「放生会」において禊として使う豊日別宮ではと考えるのは大きな飛躍ではないはずです。
このことから『古事記』が記す阿耶美都比売命の「アザミ」とは、豊比咩命を奉斎する豊日別宮の鎮座地を含んだ地域名と想定できそうです。
菟狭津媛命(呰見姫)=阿耶美都比売命
(20241102)
注
(1) 『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』佐藤洋太 新潮社 2023
参考文献
『八幡比咩神とは何か-隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明 風琳堂 2015
『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社 2022『宇佐八幡と古代神鏡の謎』 田村圓證 木村晴彦 桃坂豊 戎光祥出版株式会社 2004