神武東征(東遷)のモデル。豊城入彦命と大新川命の子孫たち。


1・天種子命と神武天皇

 日向国の神武天皇は、『海部氏勘注系図』で十二世孫の天村雲命がその投影の一人となるのではないかと検討し、また、神系譜のリズムにおいては、「火明命」を中心点に

「火明命」―「天香語山命」―「天村雲命」

と展開されるのもみてきました。天村雲命の前世代の十一世孫の人物は世襲として「天香語山命」の名を帯びるとなりますが、これと同様の伝えで記されるのが中臣氏の系譜です。それは天児屋根命、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)と続きます。天児屋根命は亦の名を櫛眞智命(くしまちのみこと)といい、これは奈良県の大和三山の一つの天香久山に鎮座する天香山神社の祭神であることから、「天香語山命」を表していることになります。続く天押雲根命の亦の名は、天村雲命です。

 この後に系譜は天種子命(あめのたねこのみこと)と続きます。これは神武東征途中で、菟狭国造の祖先の菟狭津媛命を娶ったと描かれる人物です(『日本書紀』「神武天皇紀」)。

天児屋根命(櫛眞智命=「天香語山命」)―天押雲根命(亦の名「天村雲命」)―天種子命(神武東征世代)

 『海部氏勘注系図』の十一世孫の「天香語山命」と、十二世孫の「天村雲命」が、これに対応しているとなると、十三世孫が所謂神武東征と対応するとなります。『海部氏勘注系図』にはこの世代に、『日本書紀』で神武東征時に水先案内人として描かれた、珍彦命(うずひこのみこと)が記され、それに参加したという、「中臣氏の系譜」の天種子命の事績と世代で重なります。また、建甕槌神(武甕槌命)は中臣氏の氏神で、これの一人は十二世孫の建飯片隅命でしたので、この子孫が後世の中臣氏と想定されます。

「天香語山命」の世代(十一世孫)、「天村雲命」の世代(十二世孫)、珍彦命の世代(十三世孫)

阿多根命(十一世孫)―建飯片隅命(十二世孫: 建甕槌神)→中臣氏

 『日本書紀』によると、神武東征途中で菟狭津媛命を娶ったのは天種子命だと記されますが、「宇佐家伝承」では、これは天種子命ではなく、神武天皇だったといいます。また、ウサツヒメノミコトは神武天皇の東遷に随伴して、安芸国の多祁理宮(埃宮)に六年とどまり、巫女として神祗に奉仕したといいます。その間に、神武天皇の皇子のミモロワケノミコト(御諸別命)を産んだとも伝えます。この伝承が正しいとすると、御諸別命の父が神武天皇となります。

神武天皇―御諸別命

 この神武天皇の子という、御諸別命は『日本書紀』では御諸別王、他文献では御諸別命と記され、彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の子と記されます。詳細は自著(1)に譲りますが、この彦狭嶋王の「彦狭嶋」とは所謂、「伊予王」の称号と思われます。『日本書紀』では彦狭嶋命は孝霊天皇の子として記され、伊予国の越智氏の祖となりますので、この神武天皇の一人とされた人物は、四国から九州に渡り、その後に宇佐に入った人物となりそうです。

彦狭嶋王(伊予皇子)―御諸別王
神武天皇―御諸別命

2・大新川命と豊城入彦命

 孝霊天皇を祖とする越智氏は、その後に伊予皇子こと彦狭嶋命と続きます。この越智氏の系譜には孝霊天皇を祖とする物と、物部氏の饒速日命を祖とする物があります。世代としてもより早くに四国に入っているのが孝霊天皇の一族ですから、どこかの世代で物部氏が入婿でこの家に入っていると考えるのが自然です。

 一方の物部氏の饒速日命を開祖とする系図には『伊予国造家、越智姓河野氏系譜』があり、そこには、大新川命(おおにいかわのみこと)の妻として

孝霊天皇第三王女倭迹々日百襲媛児日古狭鳴女命孫妃ニ下シ賜處

とあります。この物部氏の大新川命と、孝霊天皇の子孫の、倭迹々日百襲媛の子の「日古狭鳴女命孫」の子が、大小市命(おおおちのみこと)となります。その分注には、「伊與国造家継」とあり、系譜によればこの世代で、越智氏の男系は、後の物部氏を称する一族に変わったとなります。また、大小市命の分注には、「母、孝霊天皇女倭迹々日百龍比女狭鳴女命」とあります。

先ほどの大新川命の妻は「日古狭鳴女命孫」でした。末尾の「孫」が不明確ですが、一旦これらを纏めると、孝霊天皇の皇女の倭迹々日百襲姫の娘か孫世代の狭鳴女命を、大新川命が娶って生まれた子が、大小市命となり、越智家と伊予皇子こと「彦狭嶋」の称号を相続しているとなりそうです。

孝霊天皇(八世孫)―倭迹々日百襲姫(九世孫)―狭鳴女命(十世孫)―日古狭鳴女命(十一世孫)

日古狭鳴女命
 ||
大新川命―大小市命(物部越智氏: 伊予皇子「彦狭嶋」)

 系譜の分注によると大小市命は、開化天皇に仕えたとあります。開化天皇は『海部氏勘注系図』では十二世孫に「彦大毘毘命」とあり、この世代がそれに当たるため、大凡この系譜で復元できているのではと思います。

孝霊天皇(八世孫)―彦狭嶋命(九、十世孫)―日古狭鳴女命(十一世孫: 大新川命妻)―大小市命(十二世孫)―彦狭嶋王(十三世孫: 神武天皇東征)

 先ほども申しましたが、彦狭嶋命は世襲の称号と思われ、その姫を大新川命が娶って生まれた大小市命か、その兄弟がそれを継いでいるのではと思われます。

 宇佐家伝承では宇佐に侵攻した、神武天皇の子は御諸別王でしたが、『日本書紀』が伝える、御諸別王の系譜は

豊城入彦命―○―彦狭嶋王―御諸別王

となります。つまり「宇佐家古伝」が伝える御諸別王の父の神武天皇とは、彦狭嶋王となりますが、これは男系としては物部氏となった大新川命の末裔の人物となりそうです。
 滋賀県の旧野洲郡には新川神社(滋賀県守山市立入町)と、下新川神社(滋賀県守山市幸津川町)の二社の新川神社がありますが、『野洲郡史』などによるとその祭神は大新川命で、新川大明神と称されたといいます。現在の下新川神社の祭神は豊城入彦命ですが、琵琶湖の湖西から湖東に渡って来たといい、こちらも新川大明神と称えられます。

 『但馬故事記』によると、豊城入彦命にも内包される「入彦」とは入り来る彦といいますので、これに豊城入彦命を当てはめると、豊国に入り来た人物となりそうです。近江国には、この豊国に入った人物こと豊城入彦命を祭る神社が散見されますが、この投影の一人には事蹟としてそれに重なる大新川命(または、その子孫)が、それに当てられそうです。

豊城入彦命≒大新川命

 大新川命は『先代旧事本紀』「天孫本紀」(同書では大新河命の表記)には、

この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治められた垂仁天皇の御世、はじめに大臣となり、ついで物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮をお祀りした。大連の号は、このとき初めて起こった。(『先代旧事本紀』「天孫本紀」)

とあり、これをみれば単なる、地方の一豪族ではなく、物部宗家の大豪族と捉えられます。例えば、越中国の新川郡は『大日本地名辞書』などによると、大新川命がその地名の由来だといい、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、その子の片堅石命(かたがたしのみこと)が、珠流河国(するがのくに)(現在の静岡県)の国造になったといいます。

 このように大新川命の勢力圏は広大だったと想定できます。その確立の方法は、『伊予国造家、越智姓河野氏系譜』でみられた、その地の姫を娶り男子を産ませ、次の代ではその子が継ぐことにより、男系を入れ替え、その家の相続権を手に入れる手法が用いられたと思われます。

3・宇佐氏の祖としての神武天皇と三毛入野命

 彦狭嶋王が娶ったと想定できる、菟狭津媛命の宇佐家の系譜は、天三降命(あめのみくだりのみこと)から菟狭津彦命、菟狭津媛命と続きます。中臣氏の系譜では、この菟狭津媛命と天種子命の子が、宇佐津臣命となります。

天三降命―菟狭津彦命
     菟狭津媛命
                ||
     天種子命―宇佐津臣命→中臣氏へ

 「宇佐家古伝」では、菟狭津媛命の配偶者は、天種子命ではなく神武天皇で、その子は宇佐津臣命と、御諸別王となります。

神武天皇(大新川命の一族、彦狭嶋王)―宇佐津臣命、御諸別王
 ||
菟狭津媛命

 検討の結果、この神武天皇とされた一人は、大新川命の一族で「彦狭嶋」を襲名していた人物でしたので、菟狭津媛命の子たちは、母系で天三降命の血を受継いでいるとなります。

 この大新川命の一族の末裔が神武天皇だという傍証が、「岩田家由緒紀巻」です。これはやや伝説めいた系譜となりますが、それによると岩田家は、天三降命の遠孫の大新川命を祖とするといいます。ここで注視したいのは、この伝承が宇佐家の祖の天三降命と、物部氏の大新川命を同時に祖先に持つという点です。

神武天皇(大新川命の一族、彦狭嶋王)―宇佐津臣命、御諸別王(天三降命大新川命の後裔)

 この構図からは、宇佐八幡宮社家の宇佐氏は、神武天皇の一人とされた人物の後裔となります。これと類似する伝えが、『日田記』にあり、それによれば宇佐氏は、神武天皇の兄弟とされる三毛入野命(みけいりののみこと)を祖とするといいます。これらから考えられるのは、「記紀」がいう神武天皇の兄弟とはそれぞれが、その事績を分け与えられ、創作された人物となることです。

三毛入野命→宇佐氏

 また三毛入野命のその名を想像すればそれは、「三毛」の地に入った人物となりますが、神武天皇が入ったという宇佐神宮が鎮座する豊前国には、かつて三毛郡が存在したことをここに上げておきます。

 宇佐氏の系譜は、

天三降命―菟狭津彦命―常津彦耳王―稚屋

となります。「宇佐家古伝」によると、菟狭津彦命の孫と記される稚屋(わかや)は、神武天皇と菟狭津媛命の子の宇佐津臣命のことだといいます。これが正しいのなら、宇佐家は男系で神武天皇に繋がる一族となります。

天三降命―菟狭津彦命―常津彦耳王―宇佐津臣命(稚屋、神武天皇の皇子)→宇佐家

4・豊城入彦命の後裔の東征と神武東遷

 神武天皇の子とも伝わる、御諸別王までの系譜は、『日本書紀』には、

豊城入彦命―○―彦狭嶋王―御諸別王

と伝わりました。これまでの想定では彦狭嶋王は、神武天皇の一人であり、その兄弟という三毛入野命と重なりました。この人物は豊国の三毛郡と音通することから、豊国に入って来た人物と思われます。要するに豊城入彦命の孫とされる彦狭嶋王もまた、豊城入彦命の一人となるのでしょう。

 豊城入彦命の子孫の彦狭嶋王は、『日本書紀』では東山道十五国の都督に任命されたと記されます。この東山道は近畿から東国に伸びる街道です。その東山道の起点である近江国での事績や、『先代旧事本紀』「国造本紀」で現在の栃木、群馬県に当たる、上毛野国造(かみつけのくにのみやつこ)、下毛野国造(しもつけのくにのみやつこ)が、共に豊城入彦命を祖とすることから、この一族は豊国から東に向かったことが分かります。

 岐阜県の伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の伝承では、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて、伊奈波神社の地で討たれたと伝わります。東山道は陸奥国まで伸びていますので、恐らくこの陸奥守豊益の実像とは、東国と豊国に由来をもつ豊城入彦命の子孫のことだと思われます。

 伝承によれば五十瓊敷入彦命は、この一族に敗れ討たれているとなりますが、この人物は珍彦命と重なる人物となりますので(2)、『日本書紀』で神武東遷の際に水先案内人として描かれたその実態は、豊国勢への降伏なのでしょう。

 五十瓊敷入彦命は物部氏の氏神を祭る石上神宮の斎主であり、その首長です。豊城入彦命の子孫の八綱田命(やつなたのみこと)は、この物部系の王の総称として描かれていると思われる狭穂彦王(さほひこのみこ)との戦い勝ち、天皇より「倭日向武日向彦八綱田」 (やまとひむかたけひむかひこやつなた)と九州の「日向」を連呼した、長い名称を垂仁天皇より付与されたといいますが、これもその二者の争いを象徴的に描いた物と思われます。

 豊城入彦命の一族の後裔が、神武天皇の投影の一人であることを鑑みれば、所謂神武東征(東遷)とは、この一族の東征を物語に仮託したものといえるのでしょう。

豊城入彦命―八綱田命 対 狭穂彦王(物部の王)

 また、話は複雑になりますが、彦狭嶋王こと大新川命は物部氏の宗主とされますので、この戦いは、物部氏対物部氏の構図でもあることに気づきます。これは一方からみれば、背いている図式となります。

(20241028)


(1) 『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社
(2) 『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社

引用サイト
(1) 天璽瑞宝 古代日本の物部氏(https://mononobe-muraji.blogspot.com/p/index.html)

参考文献
『神武天皇と卑弥呼の時代 神社伝承で神社伝承で読み解く古代史』 佐藤洋太 新潮社
『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』 佐藤洋太 新潮社
『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 宇佐公康 木耳社


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