古代丹波歴史研究所の10周年記念誌「天のかけはし」に投稿した内容を一部修正して掲載いたします。
丹後の大江山には幾つかの鬼退治伝説がある。一般的に知られているものには日子坐王の鬼退治、麻呂子親王の鬼退治、源頼光の酒呑童子討伐の三つではないだろうか。籠神社に伝わる、『海部氏勘注系図』(以下、「勘注系図」)にも、大枝山にいたという大蛇を討伐した伝説が残る。
この鬼が立て籠ったという大江山は大枝山とも書くが、「勘注系図」にはこれとは異なる、桑田郡の大枝山での大蛇討伐伝承が載る。「勘注系図」によれば、この大枝山にあらわれた大蛇を討ったというのが大足彦天皇の御子の大江王だと記されている。大足彦天皇とは「記紀」が伝えるところの景行天皇である。
この事績は「勘注系図」の「稲種命に至るまでの系譜」を載せた箇所に記される。その前段には稲種命は明國彦命の子だと記されることから、十八世孫の丹波國造建振熊宿禰が稲種命に該当すると思われる。
「勘注系図」は始祖彦火明命から始まり、その兒天香語山命を一世代目と数える系譜を伝える。一世代目は兒、二世代目は孫、三世代目からは「世孫」の表記になる。先ほどの稲種命こと丹波國造建振熊宿禰の世代は十八世孫となる。
「稲種命に至るまでの系譜」は、大足彦天皇之御子大枝王から始まり、兒大名方王、兒建振熊宿禰と続き、これの亦名が稲種命だと記される。
一方、始祖彦火明命から始まる系譜の本宗と思われる中央に記される箇所(以下、本宗)には丹波國造建振熊宿禰に至るまでに、十六世孫に丹波國造大倉岐命、十七世孫に丹波國造明國彦命と続くことから、「稲種命に至るまでの系譜」とはそれぞれが対応していると想定される。
「勘注系図」だけではなく『古事記』でも大枝王は大帯日子天皇(景行天皇)の御子だと記される。これを「勘注系図」世代に当てはめると大帯日子天皇は十五世孫が、大枝王は十六世孫に該当する。十五世孫の本宗には丹波大矢田彦命が記されるが、同世孫で並ぶ大足彦天皇と丹波大矢田彦命は別人と思われる。
大足彦天皇―大枝王―大名方王―建振熊宿禰
丹波大矢田彦命―丹波國造大倉岐命―丹波國造明國彦命―建振熊宿禰
「勘注系図」十五世孫の本宗を遡ると一代前の十四世孫には川上眞稚命が表記され、その分注には「亦名、彦田田須命」とある。またこの川上眞稚命の右脇に、彦田田須命は丹波道主だと記されるので、川上眞稚命はこれが該当すると思われる。
十四世孫
川上眞稚命=彦田田須命=丹波道主
このことから川上眞稚命は丹波道主と同一人物と想定されるが、この丹波道主は「記紀」では丹波道主命、丹波道主王とも表記され、その父は『古事記』では日子坐王、『日本書紀』では彦坐王と載る人物である。
「勘注系図」は大田田命の亦名がこの彦坐王だと伝え、それは十三世孫にある。これらを「記紀」と「勘注系図」を対応させると下記となる。
彦坐王(十三世孫: 大田田命)―丹波道主王(十四世孫: 川上眞稚命)
このことから「勘注系図」本宗の十四世孫の川上眞稚命に続く十五世孫の丹波大矢田彦命は、丹波道主王の御子と想定される。『古事記』は丹波道主王の御子を載せ、そこには比婆湏比売命、真砥野比売命、弟比売命、朝庭別王の四人を挙げる。この内男子は朝庭別王だけであることから、十五世孫の丹波大矢田彦命は朝庭別王と想定可能だが、「勘注系図」の同命の分注には「亦云、朝庭別王」と有りこれを追認出来る。
彦坐王(十三世孫: 大田田命)―丹波道主王(十四世孫: 川上眞稚命)―朝庭別王(十五世孫: 丹波大矢田彦命)
「勘注系図」本宗上の十五世孫には丹波大矢田彦命が記され、これが朝庭別王となるが、一方の伝えでは十五世孫は大足彦天皇と伝わる。ここから勘案するに、その子に当たる丹波國造大倉岐命の父は二人となるが、これは実父と義父の関係と考えるのが最も相応しいとなる。その想定では丹波大矢田彦命の兄弟が大足彦天皇の配偶者となるが、ここには川上日女命と記載されるので、これがその候補者となる。
「記紀」は大足彦天皇とは景行天皇で有り、その父は垂仁天皇と伝え、この垂仁天皇の皇后の一人と記載されるのが、丹波道主王の娘の比婆湏比売命である。この比婆湏比売命は「勘注系図」では川上日女命の分注で「一云、日葉酢姫」とあることから、この姫が対応していると思われる。
「記紀」の伝えでは、比婆湏比売命は垂仁天皇の配偶者であるが、「勘注系図」の伝えでは、その世代から比婆湏比売命の配偶者は大足彦天皇であるとなる。どちらの蓋然性が高いかを考慮するために、比婆湏比売命と垂仁天皇の系譜を「記紀」が伝える共通の祖先から並べることにする。
比婆湏比売命と垂仁天皇の共通する先祖は「記紀」が第九代天皇と伝える開化天皇である。ここから比婆湏比売命までは、開化天皇(第九代)、日子坐王、美知能宇志王(丹波道主王)となり、姫は四代目となる。一方の垂仁天皇までは開化天皇(第九代)、崇神天皇(第十代)、垂仁天皇(十一代)で三代となることから、一代の不足が生まれる。その不足分の一代を加えると垂仁天皇の次代の景行天皇(十二代)となるため、四代で伝えている「勘注系図」が正しい蓋然性が高い。
開化天皇(一代)―日子坐王(二代)―美知能宇志王(丹波道主王=三代)―比婆湏比売命(四代)
開化天皇(一代)―崇神天皇(二代)―垂仁天皇(三代)―景行天皇(四代)
この検討から、「勘注系図」が比婆湏比売命と伝えていると思われる、川上日女命の配偶者は大足彦天皇が該当と判断出来る。
大足彦天皇―丹波國造大倉岐命(十六世孫: 大江王)
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川上日女命
この想定はこの後の世代の男系が丹波道主王の子から景行天皇の子への遷移と捉えられる。このことは丹波道主王と対応する十四世孫の川上眞稚命、朝庭別王と対応する十五世孫の丹波大矢田彦命の埋葬先と、その次代のそれの変化を見ると輪郭がより明確になると思われる。
埋葬先はそれぞれ十四世孫の川上眞稚命は「竹野郡将軍山、一云、熊野郡甲山」、十五世孫の丹波大矢田彦命は「熊野郡川上郷尾土見将軍岳」とあり「熊野郡甲山」が、その共通項となる。大足彦天皇側になると、その御子の大江王こと丹波國造大倉岐命の埋葬先は「加佐郡志楽郷長谷山」、その次代の丹波國造明國彦命のそれも「加佐郡田造郷高野丸山」と両者とも加佐郡となるが、これらの変化は男系の遷移と無関係ではないとみる。
「勘注系図」本宗は十五世孫の丹波大矢田彦命から、その次代の丹波國造大倉岐命で景行天皇の系統へと男系の遷移を想定して来たが、その経緯を推測する手掛かりが系図が伝える「大枝山の大蛇退治」となる。
「勘注系図」によれば、この大枝山にあらわれた大蛇を討ったというのが大足彦天皇の御子の大江王だと記されるのは先述だが、これと同様の内容が同一人物の丹波國造大倉岐命の分注にもあり、そこには「稚足彦天皇の時代に大枝山に大蛇が現れて、人民が困っていたため群臣と共に討伐した(著者大意)」と記される。
大枝王の父は景行天皇であるとから大枝王は成務天皇世代となり分注の稚足彦天皇と世代が重なる。
この大枝王と丹波國造大倉岐命の二つの大枝山の大蛇討伐の記事は、一つには大枝王と大倉岐命との主語の相違があり、その他には事柄の該当年の干支が癸丑、辛酉との八年の違いを認められる。この期間の違いは大蛇とされた人物との抗争期間を表しているとみるのが妥当と考える。また大枝王の大蛇討伐記事には、大蛇の埋葬先と思われる地が「熊野郡川上郷尾土見甲山」と記される。これは「勘注系図」の丹波大矢田彦命の埋葬地と同じであることから、大枝山の大蛇とされたのは、この人物を想定するのが自然となる。丹波大矢田彦命は『古事記』が記す朝庭別王がその該当者としたのは既に述べたところである。
これらを勘案すると、この系図の男系の遷移は平和理で行われたとは考えにくいとなろう。(20241024)
参考文献
『神道大系 古典編13』 (神道大系編纂会)