二つの王家と但馬国 出石神社のアメノヒボコ命と粟鹿神社の日子坐王。


2023年12月に但馬ヒストリア主催の講演会で、天日槍命のお話しをさせていただきました。

 但馬国にはアメノヒボコ命を祭る出石神社と、彦坐王を祭る粟鹿神社の二つの一宮があり、これら祭神はどちらも後に大王家(天皇家)となった人物で、その鎮座地の但馬国(豊岡)は非常に重要な地であるがテーマです。

講演会の内容がYoutubeに上がりました。

新羅の国の王子、天日槍命

 天日槍命は新羅の国の王子として「記紀」に記されます。豊岡でとても重要な出石神社の祭神であるのは皆さまご存じかと思います。伝説によれば天日槍命は泥海であった豊岡の地を円山川河口の瀬戸、津居山(ついやま)の間の岩山を開いて濁流を日本海に流して、豊岡を平野にしたと伝わります(出石神社由緒略記)。

 豊岡の地を開拓したという天日槍命はどこから豊岡に入ったのでしょう。『日本書紀』によると七つの宝を持って来日し、まずは播磨国の宍粟邑(しさわのむら)に碇泊したといいます。それを知った天皇から宍粟邑と淡路島の出浅邑(いでさのむら)を授けると使いから連絡が有りましたが、自ら住む場所を探したいとそれを謹み断りました。

 その後のルートは菟道河を遡り、北へと向かい近江国吾名邑(おうみのくにあなのむら)(滋賀県米原市箕浦付近)に入り、さらに若狭国を経て、西へ向かい但馬国に入ったと『書紀』は記します。

 但馬国に入るまでのルートが、お隣の京都府京丹後市の志布比(しぶひ)神社の伝説に残っています。それによれば天日槍命は浜詰の海岸、現在の箱石に近い海岸に上陸したといいます。天日槍命の一族のキーワードは「橘」になりますが、京丹後市網野町木津の地名由来は、この地は日本に初めて「橘」が渡賜した場所であるので、「橘の庄」と名付けられ、それが後に同じ音で文字を変えて「木津」と書くようになったといいます。

 その後に天日槍命は但馬国を目指して熊野郡川上荘馬次の里須田(京丹後市久美浜町須田)にしばらく滞在し、そこから川上の奥布袋野(おくほたいの)の西の峠を越えて但馬国へと越えたと伝わります。また、この時に天日槍命が来日時に所持していた九品の宝物を馬に乗せて、この峠を越えられたので駒越(こまごし)と名付けられたといいます。

 峠を越え但馬国出石郡宮内村入られて九品の宝物を垂仁天皇に献上した地が、現在の出石神社の鎮座地になったといいます。

垂仁天皇は天日槍命の一族の象徴

 先ほど天日槍命の一族のキーワードは「橘」であるといいましたが、この「橘」とは「みかん」のことです。何故この「橘」が一族の象徴になるかといいますと、天日槍命の末裔の田道間守(たじまもり)が「橘」を日本に初めて伝えた人物だからです。

 田道間守は垂仁天皇のために常世の国に非時(ときじく)の香菓(かくのみ) をとりに行ったといいます。これが「橘」だといわれていて、この実は不老長寿の効果があるのではと思われます。田道間守がようやくこれを手に入れて戻った時には垂仁天皇はなくなってしまっており、嘆き悲しんだ田道間守は自ら命を絶ってしまったといいます。

 この田道間守を祭っている神社がお菓子の神様として慕われている中嶋(なかしま)神社です。田道間守は亡くなる際に、垂仁天皇の陵にまいったと『日本書記』は記します。この垂仁天皇の陵墓である菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)は、奈良県奈良市の宝来山古墳(ほうらいさんこふん、蓬莱山古墳)(尼ヶ辻町)が現在比定されています。宝来山古墳の周りは水で満たされており、これを周濠と言います。この中には小さな嶋が浮かんでいます。これを陪塚(ばいちょう/ばいづか)といい、古墳の被葬者にとても近い人物が被葬者であることが多い物で、通常は身内になります。中嶋神社の「中嶋」とはこの宝来山古墳の周濠の中にある嶋を神社名の由来としているといいます。

 垂仁天皇の陵墓、宝来山古墳の陪塚の被葬者は天日槍命の子孫の田道間守です。普通に考えると田道間守が先祖の墓の陪塚にいるとなるでしょう。

 『日本書紀』の垂仁天皇紀は新羅の国の王子で始まり、新羅の国の王子の天日槍命の末裔の田道間守の話で幕を閉じます。垂仁天皇の陵墓の中には身内と思われる、天日槍命の末裔の田道間守が眠り、垂仁天皇紀が天日槍命の一族の記録であることを考えますと、垂仁天皇とは天日槍命の一族を表しているようです。

 田道間守が垂仁天皇の命の永続を願ったとは、恐らくはこの一族の王朝の繁栄を願った比喩ではと思われます。これは著者の想像に過ぎないのでしょうか。

 実は文献から当たれば垂仁天皇が天日槍命だと伝える物があります。垂仁天皇の和風諡号は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)ですが、『新撰姓氏録』には田遅麻守命(たじまもりのみこと)の子孫の三宅連の出自は「新羅国の王子天日桙命の後也、或説が言うには、活目入彦命(垂仁天皇)を祖とする」とあり、天日槍命が垂仁天皇だと載せています。

「左近の桜、右近の橘」。二つの王家

 天日槍命こと垂仁天皇は函石浜(京丹後市久美浜町湊宮)あたりに上陸をして、その後久美浜町の須田に入りました。久美浜町谷には間谷という小字があり、地元の伝承では、そこに垂仁天皇が降臨して、足を洗ったという「足洗井戸(あしあらいいど)」という井戸があったといいます。先ほどの志布比神社の伝承では、天日槍命は須田に「しばらく滞在」したと伝わっていました。著者はこの滞在はタニハ(丹後)の姫を嫁に取りに来たと考えています。

 この須田の地は丹波道主王(たにはのみちぬしのおおきみ)が屋敷を構えたとの伝承が残る地です。丹波道主王は開化天皇の皇子という彦坐王(ひこいますのみこ)の子です。この丹波道主命の娘に垂仁天皇の皇后となった日葉酢媛がいます。

開化天皇―彦坐王―丹波道主王―日葉酢媛

 丹波道主王の彦坐王は『但馬故事記』によれば刀我禾鹿宮(とがのあわがのみや)にて部下から「朝して其徳を頌す」と天皇として称えられたと記されます。このことからも彦坐王の系統が大王家(天皇)を継いでいたと思われます。

 丹波道主王が大王家(天皇)を継いでいた一つの傍証が、王の子供の名前に残されており、それは朝廷別王(みかどわけのみこ)といいます。その名は朝廷から別れた王と、その父が朝廷(天皇)であったと暗示していると捉えられます。

【丹波道主王は大王(天皇家)】
開化天皇―彦坐王―丹波道主王―朝廷別王
              ―日葉酢媛
                 ||
               垂仁天皇(天日槍命)

 天皇家の子と想定される朝廷別王と日葉酢媛は兄弟です。日葉酢媛は垂仁天皇の皇后になったと「記紀」は伝えます。嫁をとるとは、逆の立場で言えば相手に差出しているとなります。古代においてのその風習は宇佐神宮旧宮司家の宇佐公康氏によれば、「当時の風習として、友好関係を保つ最高の歓待であり、忠節を誓う儀式」であったといいます(宇佐公康『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』)。これを容易な表現でいえば降伏の証として征服者へ差し出したとなります。

 垂仁天皇(天日槍命)が丹波道主王の勢力地に入り滞在したとは、一方の大王家である彦坐王、丹波道主王と続く王家を垂仁天皇(天日槍命)が制服をして嫁をとったとなるのでしょう。

 平安宮内裏の紫宸殿の前庭に植えられている木は「左近の桜、右近の橘」です。木花咲耶姫を思い返すまでもなく桜は「タニハ王朝」から続く王朝の象徴で彦坐王、丹波道主王の姫の暗示でもあると思われます。一方の「橘」は「天日槍命の王朝」の象徴です。

 天皇の御所の前に植えられた桜と橘は、二つの系統が天皇の先祖だと今に伝える木々と言えるのではないでしょうか。

 この但馬国には粟鹿神社と出石神社の二つの一宮が有ります。粟鹿神社には彦坐王が、出石神社には天日槍命が祭られています。どちらも現在の天皇家に繋がる血筋の元となっている重要な神様です。

 祭神の生きた歴史を知ることこそ現在を明るくする灯だと私は考えています。この二つの王家の息吹が今も残る大切な但馬の歴史を深く知り伝えていくことは、但馬国や豊岡だけではなく日本を誇りに思う気持ちに繋がると著者はそう確信しています。

参考文献
『天のかけはし12号』 伴とし子
『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 宇佐公康 木耳社



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