大年神と御年神。「滝神」の多岐都比売命と高照光姫大神命。瀬織津姫命秘抄三。


1・大和大国魂大神と向日神社の御歳神

 崇神天皇の御宇まで宮中で奉斎されていた天照大神と大和大国魂大神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と、渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)をそれぞれに付けて、宮中から出され、大市(おおち)の長岡岬(ながおかのさき)で祭られたのは、先に説明しました

 この大和大国魂大神の遷座と類似する、鎮座伝承を持つ神社が山城国乙訓郡の式内社である向日神社(むこうじんじゃ)(京都府向日市向日町北山)です。社伝によれば、向日山に大歳神(おおとしのかみ)の御子の御歳神(みとしのかみ)が登られた時に、その地を向日山と名付けられて鎮座し、その後に神は御田作りを奨励されたと伝わります。このことから、向日山に鎮まった御歳神が向日神となります。

 その他に向日神の鎮座の縁起を記した書に、「向日二所社御鎮座記」があります。そこには向日神は、向日山の峯に登った際に、その鎮座地を「長尾岬なるかも」と、宣ったと記されます。

 大和大国魂大神の遷座地は長岡岬であり、向日神の鎮座地は長尾岬と、一見異なるように見えますが、これは同一名です。向日神社の鎮座地の向日市は、かつて長岡京が存在していた地であり、社伝によると、その建造時に境内地を譲ったといいます。このことから、長尾岬と長岡岬は同一の地名と分かります。

 同じ長岡岬に降りた、大和神社と向日神社の祭神は、それぞれ大和大国魂大神と御歳神でしたが、『古事記』によれば、御年神の親は大年神となります。

 国史を著した『日本書紀』と『古事記』の違いの一つは、『古事記』には多くの系譜の伝えを載せることです。その内の一つに須佐之男命の子として伝わる、大年神の系譜があります。

 『古事記』は、大国御魂神(大国魂大神)の母として、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘、伊怒比売(いのひめ)を挙げ、御年神の母としては香用比売(かぐよひめ)を挙げます。二神の母は異なる神として記されます。

 『古事記』が挙げる幾つかの系譜では、同一人物をやや異なる名前の別人物として記すことが有ります。その場合は、その人物の母もそれに倣うことになります。一例では、開化天皇記で挙がる大箇木垂根王と、大箇木真若王などです。

 大国魂大神と御年神の母は、伊怒比売と香用比売でしたが、『古事記』は伊怒比売の父として神活須毘神を伝える一方で、香用比売の父は伝えていません。それを載せるのが、「向日二所社御鎮座記」(以下、「御鎮座記」)です。

 御年神が降臨して創建された向日神社の神は向日神となりますが、「御鎮座記」では向日神の母は活須日神の娘の須治曜姫(すじかがよひめ)命と伝えます。向日神は御年神でしたから、須治曜姫命と香用比売は同一人物になり、その父は活須日神となります。大国魂大神の母の父は、神活須毘神でしたから、これと同一神となります。

『古事記』

活須毘神―伊怒比売―大国魂大神(長岡岬に降臨

『古事記』と「向日二所社御鎮座記」の組合せ

活須日神―香用比売(須治曜姫命)―御年神(向日神)(長岡岬に降臨

 上記を並べると、大国魂大神と御年神の祖父は同一ですから、その母は同一神か、姉妹となります。大国魂大神と御年神の二神はどちらも長岡岬に降臨することからも、同一の神格を持つとみて良いのではと思われます。このことから『古事記』が伝える、二神の母の伊怒比売と香用比売は同一神とではと疑われます。

 天火明命の子の天香山命(あめのかぐやまのみこと)が「香」の字で「かぐ」と読むことからも、御年神の母の香用比売の読みは「かぐよひめ」と読みます。香用比売の子には、御年神の兄弟として大香山戸臣神(おおかぐやまとおみのかみ)がいることからも、姫と天香山が強く関係しているのは歴然です。

 拙著で説明済み(1)ですが、大和国の天香久山の山頂には、地である国常立神社と、天へと昇る龍神の高龗神を祭ることから、この山は、「香久や姫」が帰った、月へと繋がる地だと想定されます。このことから、この天香久山の名を持った香用比売もまた、「かぐや姫」の一人となる蓋然性が高く、この推論が当てはまると、姫の名の香用比売は、個人名ではないとなります。

2・大年神と御年神

 大和神社の祭神は現在、中殿に日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)、左殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿に御年大神(みとしのおおかみ)を祭りますが、これは『大倭神社注進状』(おおやまとじんじゃちゅうしんじょう)の記載に合わせたもので、本来は日本大国魂大神の一座であったといいます(2)。中殿の日本大国魂大神が主であり、左殿と、右殿は日本大国魂大神の夫と子の関係になると思われます。大和神社の祭神には幾つかの説があり、これらを精査すると、このことが浮かび上がります。

『元要記』には

一宮 大己貴神 大三輪神也

二宮 大国御魂神 大和神社元宮中神

三宮 天照日大御神 相殿

若宮 益御子神 日神御子豊宇受姫尊稲霊神稲乃豊饒ハ益儀也外宮同等

とあり、又一説曰として

一宮 大年神

二宮 大国御魂神

三宮 倉稲魂命

廣瀬神之亦曰ク比叡明神

者素戔嗚尊孫大年神子大国魂神坐々々大三輪明神同体儀重可勘合之

と、載せます。本殿の日本大国魂大神は三説とも変わりません。左殿の八千戈大神は大己貴神の別名ですから、異なるのは『元要記』一説の大年神となります。三者が異なってみえるのは、御年大神、天照日大御神、倉稲魂命となる右殿です。
 現在の祭神の御年大神と、『元要記』一説の倉稲魂命は稲霊ですから、『元要記』の天照日大御神が一見異なって見えます。しかし、『元要記』の若宮の益御子神を合わせて考えると、その神は豊受大神で、水神となりますから、天照日大御神の日神との一対の捉えられます。日(火)水は稲作に必須の要素ですから、これは稲霊と言い換えられ、三神が揃います。

 これらを纏めると左殿の大年神の御子が右殿の御年大神ですから、置き換えると大己貴神とその御子となり、それは稲霊を奉斎していた人物となりそうです。

大年神(大己貴神)―御年大神(天照日大御神)

 既に検討済みですが、本殿の日本大国魂大神は大己貴神の荒御魂で、水霊の神といえました。これは天照大神の荒御魂ともいえましたが、『元要記』でも「元宮中神(本殿)」は、「天照大神同等」とあります。左殿の大己貴神はその和魂で、本殿と一対となり、右殿はその御子神となるのでしょう。

 若宮の益御子神は、右殿と一対になっていると思われますが、『元要記』では日御子豊宇氣姫尊とあります。右殿の御年神は、男神説と女神説があり、これを日神の天照大神と、水神のその后神(瀬織津姫命)の御子と捉えた時には、二つの要素を兼ね備えている神と考えるのは、無理がない考えです。『元要記』の伝えを採るならば、女神として顕現している場合は、豊宇氣姫尊といえるのではないでしょうか。

 左殿は大己貴神と大年神となります。大年神の本来は、稲魂の年神の頭に「大」をつけた神です。水田稲作が生産基盤であった時代には、稲は、生命活動の源であったために、生命の根源と置き換えられ、その生産期間の一年間が、年神として神格化されたと思われます。年神は元々は自然神で、系譜で表す人格神となると、違和感を感じざるを得ません。

 先述しているように、「記紀」の構造は「歴史の部」を「神話の部」に振り替えて、記述していますが、「大年神の系譜」の場合は、「神話の部」の大己貴神(大国主命)の系譜を更に、神話化した物と想定されます。

3・高照光姫大神は瀬織津姫命の分霊

 『先代旧事本紀』には大己貴神の子の高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみのみこと)は倭国葛木郡御歳神社に鎮座しているとあり、これは全国の御年神の総社である、葛木御歳神社(奈良県御所市東持田)を指します。その他にも御年神を祭る神社には、飛騨国一宮の水無神社(みなしじんじゃ)(岐阜県高山市一之宮町)がありますが、こちらから分霊した水無神社の幾つかは、高照光姫命を祭神とします。

 ここからみえるのは、『古事記』の「大年神の系譜」に載る、大年神の子の御年神は、大己貴神の子の高照光姫大神命と重なることです。大己貴神は「歴史の部」に於いては、孝昭天皇を始めとした「孝」が接頭する天皇の反映でした。この用例を別に挙げれば、「神話の部」で描かれる、伊耶那岐命の十拳剣の名前という、天之尾羽張(あめのおははり)、別名、伊都之尾羽張(いつのおははり)の子の建御雷之男神(たけみかつちのおのかみ)が、「歴史の部」の建飯賀田須命(たけいいかたすのみこと)となる物などです。要するに同一人物が、複数人として記述されるのが「記紀」のスタイルですが、御年神と高照光姫大神命もその例に漏れないということです。

 話を御年神に戻します。現在、水無神社で御年神は「男神」として祭られているといいます。水無神社の神体山は位山ですが、そこから流れる宮川は富山県に入ると神通川と呼称されます。『宮村史』には、この神通川の水をつかさどる神が水無の神であり、故に水主神という説があると載せます。要するに、水無神社は水神ですが、そうなると、陰陽で捉えれば、「陰」であり、男女で置き換えれば「女神」とみるのが自然です。これが「男神」と捉えられる原因は、『古語拾遺』にあると思われます。

 『古語拾遺』には稲(歳)の神である、御歳神が祟り、それを鎮めるための祭祀が記されます。

昔在、神代に、大地主神が田を作る日に、牛の宍(肉)を農夫たちに食べさせた。この時、稲の神である御歳神の子がその田にやってきて、豊年を祈る饗宴の御饌(アエ〈アへ〉)に唾を吐いて還り、その饗の様子を父神に報告した。 御歳神は大いに怒って、蝗(稲の害虫のイナゴ)をその田に放ってしまわれた。稲の苗の葉はたちまち枯れ始めて篠竹のようになってしまった。(菅田 正昭『現代語訳 古語拾遺』)

 ここでは御歳神は父神として描かれますので、「男神」です。これが御年神が男神として伝えられる原因と思われます。

 しかし、『古語拾遺』を追うと、その後に御歳神を鎮める方法は、「白猪、白馬、白鶏を献じ」ることといいます。この供物の色の「白」は、通常は「赤」と対になる概念でしょう。また、それでも鎮まらない場合は、牛の肉を溝に置いて、男茎形を作り、それに添えるといいます。男茎形とは、男根の形を模した物ですから、これらを考えると、どうも鎮める対象は女神ではないかと首を傾げたくなります。

 御年神は、先ほどの大和神社の祭殿の配置では、本殿の大己貴神の荒御魂と、左殿の和魂が男女一対と捉えた時には、右殿は御子神として、その両親の日神と水神の両性を受継いでいるとも解釈出来ました。その推定が当てはまるなら、御年神が男神、女神のどちらの要素も兼ね備えて伝えられる可能性は捨て切れません。

 御年神は、「男神」説もありますが、水神の要素を持ち、男茎形を供えること、また、御年神として仮託された姫は、大己貴神の娘で高照光姫大神命でしたので、女神の側面が強いとなります。

 御年神に仮託された高照光姫大神命の母の名は、宗像三女神の一人の高津姫神(たかつひめのかみ)と『先代旧事本紀』は伝えます。この高津姫神は、多岐都比売命(たぎつひめ)とも書きますが、これは「滝」の姫であり(3)、異称として瀬織津姫命を持ちます(4)。「滝神」が多岐都比売命であり瀬織津姫命であることは、菊池展明氏と玉田由美子氏の研究で明らかにされていますので一例を紹介します。

 多岐都比売命が「滝神」として記される例は、大分県玖珠町の櫻岡瀧神社の祭神を伝える資料があります。神社では宗像三女神を祭りますが、『大分県社寺名勝圖録』では、その内の多岐都比売命の代わりに、「瀧津姫命」を祭ると記されています。

 多岐都比売命が瀬織津姫命と載る資料には、一条兼良の『公事根源』があり、そこには湍津姫(たぎつひめ)命が、湍織津姫ノ命と記され、そのルビにセヲリツ姫ノ命と付されています。また鹿児島県出水市の厳島神社、滋賀県野洲市の長澤神社では三女神の湍津姫神の代わりに、瀬織津姫神と記される物があります(5)。これらを纏めると、多岐都比売命は「滝神」であり、瀬織津姫でもあるとなります。

 大和神社の本殿の倭大国魂大神の御子神が右殿の御年神と想定されますが、これは高照光姫大神になりますので、本殿の母は多岐都比売命となります。

 倭大国魂大神は大己貴神の荒御魂ですが、これは天照大神の后神で、瀬織津姫命ともいえました。その子である、高照光姫大神は御年神としても奉斎されます。このことから、この女神もまた、水神の瀬織津姫命の分霊を受継いでいる一人とみて良いのではないでしょうか。

天照大神(大己貴神の和魂、大年神)
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瀬織津姫命(大己貴神の荒御魂)―高照光姫大神(御年神、瀬織津姫命の分霊)

(20240713)

(1)    佐藤洋太『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』

(2)    大和神社について(川畑 信雄)(http://ooyamatohp.net/yurai.html)

(3)    湍津姫は瀧津姫(http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-539.html)

(4)    湍津姫神考(http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-508.html?sp)

(5)    菊池展明遺稿集『出雲の国の女神』巻末資料

参考文献

中村修『乙訓の原像・続編』


瀬織津姫命秘抄、記事一覧


“大年神と御年神。「滝神」の多岐都比売命と高照光姫大神命。瀬織津姫命秘抄三。” への1件のコメント

  1. […]  櫻大刀自神は、『皇太神宮儀式帳』では、大年神の子でしたが、検討では大年神は大己貴神の一人といえました。再三ですが、これは、天照大神の和魂ともいえ、その后神は、荒御魂であり、水霊の瀬織津姫命の分霊となりました。その御子である、御年神もまた、その二つの要素を兼ね備えた神であるとなります。同様に大年神の御子である、櫻大刀自神は女神ですから、水火の内の水霊として、天照大神の荒御魂である瀬織津姫命を受継いでいると想定できます。 […]

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