「欠史八代」の事績と神代の大国主命。大神神社と大和神社の祭祀。


1・欠史八代の事績と神代の世界

 二代綏靖天皇から、九代の開化天皇までは事績の記載が乏しいため所謂「欠史八代」と称されますが、これはこの時代の資料が「記紀」編纂時に乏しい為に起こったのではなく、それらの事績を記すと「記紀」の編纂方針に齟齬を来たすために行っていると想定されます。「記紀」の編纂方針の根幹は「万世一系」(1)ですが、「欠史八代」の事績などを記すと、これに問題が出るため、それを神話として創作し、物語化をしていると思われます。その要因は、大きくは二点有り、一つは男系が変わっているため、もう一点は女性天皇がいるためとなります。

 そのため「記紀」は、二重構造になっており、歴史を神代の神話として描いた「神話の部」と、歴代天皇名や宮居を記した「歴史の部」に分かれていると言うのが著者の見解です。このため「神話の部」の全てが本当に、神代の時代と認識されていて「記紀」を創作したのではないと考えられます。

 「記紀」が第五代から八代として記す孝昭、孝安、孝霊、孝元天皇は「欠史八代」の中に含まれており、それぞれの頭には「孝」が接頭します。この「孝」が接頭する天皇の事績は、「神代」の時代に振り分けられ、大己貴命(大国主神)の物語として描かれています。これの傍証となるのが、『鹿島宮社例伝記』です。

 『鹿島宮社例伝記』は鎌倉時代に成立した、鹿島神宮の由来を著した書です。そこには息栖神社(いきすじんじゃ)の祭神の岐神(くなとのかみ)は、仁王代には孝昭天皇ともいう、と記しています。意訳すると、息栖神社の祭神は神話に出てくる時は岐神(久那戸神)で、歴史時代を記した時には孝昭天皇という、となるのでしょう。

 『鹿島宮社例伝記』が孝昭天皇だと伝える岐神は『日本書紀』神代下では、経津主神と武甕槌神を案内した神として描かれ、手元の『日本書紀』(2)にも岐神は、猿田彦大神と注記されるなど、一般的には猿田彦大神と同じ神といわれています。その他では、猿田彦大神を祭る猿田神社(千葉県銚子市猿田町)では、経津主神と武甕槌神の神を案内した後に鎮まった神と伝承されていることからも、事績が重なる二人の神は同一神とみられています。また岐神は『鹿島宮社例伝記』には、伊勢では「土公(つちぎみ)」と記されますが、これは猿田彦大神のことになります。

 ここまでを纏めると「神話の部」で描かれる岐神と猿田彦大神は同一神となり、それは「歴史の部」では孝昭天皇となります。

2・男神としての天照大神と猿田彦大神

 岐神が経津主神と武甕槌神を先導したのと同じように、猿田彦大神もまた天孫を案内した神として『日本書紀』に描かれます。経津主神と武甕槌神は、高皇産霊尊、または天照大神の命令によって、葦原中国の平定に派遣されますが、そこで討伐の対象になっているのが、大己貴神です。二神は大己貴神に降伏を迫り、それに対して大己貴神は自分の子の事代主神に尋ねてから決めると返答をします。事代主神は父に降伏を勧め、大己貴神はそれに従います。その後に、全国平定のための先導役として描かれるのが岐神(猿田彦大神)となります。

 二神に降伏した大己貴神の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)を祭っているのが、奈良県の大神神社になり、その創建は孝昭天皇元年と伝わります。この大神神社の社家の系譜に「三輪高宮家系」があり、その祖先は大国主命となり、その子には「記紀」と同様に都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)と続きます。その分注には又の名として、猨田彦神、大物主神と二つの神は同一神だと記しますので、事代主神は猿田彦大神だと伝えていることになります。これらを纏めると下記になります。

大己貴神―事代主神=猿田彦大神=岐神(人皇においては孝昭天皇)

 『日本書紀』神代下において、経津主神と武甕槌神が岐神の先導によって降伏した首魁は、大物主神と事代主神だとされますが、これは先ほどの「三輪高宮家系」の事代主命と、又の名の大物主神とも対応していることに気づきます。事代主神は猿田彦大神ですから、岐神(猿田彦大神)は先導役ではなく、降伏した側の頭領を仮託した神と考えるのが自然でしょう。
 この降伏した首魁という大物主神は、大己貴神の幸魂奇魂であり、大神神社の祭神です。社伝では孝昭天皇元年に三輪山の山頂の杉に、「日輪」の姿で降臨したと伝わり、その「日輪」の姿とは太陽神を彷彿とさせます(『大三輪社勘文』)。大神神社に伝わる幾つかの古文書では、それは天照大神だといいます。

 『三輪大明神縁起』には天上では天照、下界に降臨後は大和国三輪山では大神大明神、伊勢国神道山(かみじやま)(※著者注:伊勢内宮の南にある神路山)では皇大神であると記されます。一連を勘案すると、天上にいた天照大神が最初に降臨した先が三輪山で、その創建が孝昭天皇元年であることから、大己貴神こと孝昭天皇が祭っていた太陽神が天照大神となるのでしょう。

 三輪山に降臨した天照大神の分身が猿田彦大神であることは既述ですが、今一度振り返れば、猿田彦大神は太陽神の神格を持ち、猿田神社や豊日別神社(福岡県行橋市南泉)の伝承では天照大神の分身と伝わっていました。
 大神神社の由来から三輪山に降臨したのは、天照大神となりますが、それは大己貴神の幸魂奇魂であることを考慮すれば、その分身の猿田彦大神は、又の名を持つ事代主神だけではなく、その親の大己貴神をも含んだ太陽神を奉斎し、火継した者の総称と思われます。また「記紀」では天照大神は女神(女性)として描かれ、これのモデルになった人物は、一般的に孝霊天皇皇女の倭迹々日百襲姫や、持統天皇などの説が有りますが、いずれも男神の天照大神を火継した人物よりも後代になります。
 「記紀」が天照大神を火継した天照大神の一人を取り上げ、女性として描いた為に、使用できなくなった男神の天照大神の名称が、猿田彦大神となったと思われます。

天照大神―猿田彦大神(大国主神)―猿田彦大神(事代主神)

 天照大神のプロトタイプは各地の「天照神社」で祭られていることから火明命がそれに該当すると想定されます。大国主命は天照大神の神威を火継した人物でしたが、その子として『古事記』に記されるのが建御名方神です。建御名方神は長野県の諏訪大社の祭神であるのは周知ですが、『諏訪神社誌』では、その一名を火明命と考察しているのは、上記の説と照らし合わせても首肯出来ます。

3・大国主命の一人は孝昭天皇

 「歴史の部」となる人皇五代の孝昭天皇は、猿田彦大神(岐神)と伝わっていました。猿田彦大神が広義では男神の天照大神を仮託した名称だと考えると、孝昭天皇に続く「孝」が接頭する孝安、孝霊、孝元天皇もまた天照大神を火継していたと考えるのは不都合が生じません。

 猿田彦大神はまた振魂命(ふるたまのみこと)だとも伝わります(『豊受皇太神宮御鎮座本紀』)。この振魂命を御祖神として系譜の先頭に記す一族が、倭国造家(やまとのくにのみやつこけ)です。これと同様の事柄を伝えているのが、『海部氏勘注系図』(あまべしかんちゅうけいず)で、系図先頭にはこちらは振魂命(猿田彦大神)ではなく彦火明命(ひこほあかりのみこと)として伝え、その子孫は「倭国造倭直系譜」と同じ人物が記されます。二つの系図を並べると明確ですが、ここでも猿田彦大神と天照大神(火明命)の二神は揃います。

「倭国造倭直系譜」

振魂命(布留多麻乃命)(猿田彦大神)―武位起命―椎根津彦(珍彦)

『海部氏勘注系図』

彦火明命―武位起命―宇豆彦命―倭宿禰

 猿田彦大神を祖とする倭国造家の子孫が奉斎する神社が、大和神社で、その祭神は日本大国魂大神(やまとのおおくにたまのおおかみ)です。その縁起を記した『大和神社注進状』には、日本大国魂大神は大己貴命の荒御魂だとあります。対となる大己貴命の幸魂奇魂は大神神社で祭られており、その本は天照大神である事を考えると、大和神社も同様と考えられます。

 『日本書紀』によれば天照大神は、崇神天皇の時代まで宮中で並祭されていたといいます。その後にその神威を恐れ、天照大神は豊鋤入姫命(とよすきのいりひめのみこと)により倭の笠縫邑に、倭大国魂神もまた宮中から移されます。社伝によれば、この時に淳名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが創建の由来であるといいます。

 現在の地へ遷座する前に、いつから宮中で祭られてているかですが、それは孝昭天皇元年に初めて宮中に顕れて、天照大神と共に奉斎されたといいます(『大和志料』)。これは大神神社に天照大神が降臨した年と同年となります。

 大神神社と大和神社は、それぞれ大己貴神を祭り、その創建はどちらも孝昭天皇元年を起源とします。一連の検討から大己貴神は猿田彦大神(岐神)と言えましたが、それぞれの神は「神話の部」で描かれ、それと同一人物として伝わる孝昭天皇は「歴史の部」で記されることから、その「欠史」した事績は、『日本書紀』神代下に物語化して記されたといえると思われます。

 創建の由来が孝昭天皇や孝安天皇を始めとした、「孝」が接頭する天皇の時代を謳っている神社は、大国主命の時代の意味を含んでいる場合が有ります。神社を巡る時に時に頭に入れておくと、楽しみが一つ増えるかもしれません。

(1)    佐藤 洋太 『かぐや姫と浦島太郎の血脈 ヤマトタケル尊と応神天皇の世紀』(2023年・新潮社)

(2)    井上 光貞 訳 川副 武胤 佐伯 有清 『日本書紀(上)』(2020年・中央公論新社)

参考文献

『大神神社』 中山和敬 学生社


“「欠史八代」の事績と神代の大国主命。大神神社と大和神社の祭祀。” への1件のコメント

  1. […]  天照大神は伊勢神宮の内宮で、倭大国魂大神は、大和神社(おおやまとじんじゃ)で祭られている神です。先述しましたが、天照大神は『三輪大明神縁起』では下界にはまず、大和国の三輪山へ降臨したということから、大神神社の神だとも分かります。 伊勢神宮へのご鎮座はこの後、垂仁天皇の時代に豊鍬入姫命から受継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢国の五十鈴川の辺りに斎宮を建てたのを起源とするといいます。これは一説には垂仁天皇二十六年の事と『日本書紀』にあり、この時「天照大神がはじめて天より降られたところである」と不思議な文言をも記します。 「はじめて天より降られたところ」が、伊勢国であったのなら、宮中は地上ではないのかと言う疑問は置きまして、大神神社の文献や話の流れを取るのなら、どちらの天照大神も同一神だとしたら、崇神天皇即位以前より宮中で奉斎されていたことになります。 […]

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