『海部氏勘注系図』は十五世孫の景行天皇から始まり十八世孫の稲種命(いなだね/いなだのみこと)こと建振熊宿禰へと続きます。
景行天皇(十五世孫: 応神天皇)―丹波国造大倉岐命(十六世孫)―丹波國造明國彦命(十七世孫)―丹波國造建振熊宿禰(十八世孫)
「勘注系図」では十六世孫の丹波国造大倉岐命から人物の前に「丹波国造」が接頭します。系図の本宗に記される十五世孫の丹波大矢田彦命(たんばのおおやたひこのみこと)までは、大王(天皇)であったとみられるのは説明してきた通りです。
十五世孫の景行天皇(応神天皇)の配偶者はかぐや姫として描かれる息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)でしたが、これは継体天皇の出自を伝える『上宮記逸文』の系譜で凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)の配偶者で有りました。
息長真若中比売(十五世孫)
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凡牟都和希王(十五世孫:応神天皇)―若野毛二俣王(十六世孫)―大郎子(一名意富富等王)(十七世孫)―乎非王(十八世孫)―汙斯王(彦主人王)(十九世孫)―乎富等大公王(継体天皇)(二十世孫)
十五世孫の凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)の子が若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)です。この「ワカヌケ」と音通する人物が『古事記』が成務天皇の皇子という和訶奴気王(わかぬけのみこ)です。和訶奴気王はとてもユニーク(唯一)な名前です。「記紀」ではこの二人以外に登場しませんので、成務天皇の子の和訶奴気王と応神天皇の皇子の若野毛二俣王の二人は同一人物と想定出来ます。『記紀』で天皇の皇子と記されることから、皇統は若野毛二俣王が継いでいると思われます。
「勘注系図」の十六世孫の大倉岐命は景行天皇の皇子の大枝王(大江王『古事記』)と伝わりました。大枝王の娘が帯中日子天皇(たらしなかつひこ)(仲哀天皇)の妃という大中比売命(おおなかつひめ)です。帯中日子天皇と大中比売命の皇子が麛坂(かごさか)皇子(香坂王『古事記』)と忍熊皇子(おしくまのみこ)になります。「勘注系図」でも十八世孫の建振熊宿禰の姨が足仲彦天皇の妃の大中日女命と記され、これを追認できます。
景行天皇(十五世孫)―大枝王(十六世孫)―大中比売命(十七世孫)
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若野毛二俣王(十六世孫)―大郎子(十七世孫:仲哀天皇)―忍熊皇子(十八世孫)
若野毛二俣王が皇位を継いだとなると景行天皇の次代で成務天皇となり、その子は仲哀天皇となります。そうなりますと若野毛二俣王の子の大郎子(意富富等王)が仲哀天皇となったと想定できます。この大郎子は意富富杼王(おおほどのみこ)とも表記します。
仲哀天皇と意富富杼王が同一人物として繋がる氏族が布勢公(君)(ふせのきみ)です。布勢君は『古事記』では意富富杼王がその祖と伝え、『新撰姓氏録』では忍稚命(おしわかのみこと)をその祖とします。
布勢公は『新撰姓氏録』に「山城国皇別、仲哀天皇皇子忍稚命之後也」だと載ります。仲哀天皇の皇子は麛坂皇子と忍熊皇子の二人で、忍の稚(わか)とは弟の意味でしょうから、忍熊皇子が対応します。布勢公は意富富杼王と忍熊皇子の子孫となると下記が想定できます。
意富富杼王(仲哀天皇)―忍熊皇子―布勢公(君)
『上宮記逸文』では意富富杼王の配偶者は中斯知命(なかしちのみこと)とありますが、これは知と姫を誤って書写したという説があるといいます。この説を取り姫が「ナカシヒメ」だとすると、想定する配偶者の大中比売命の「ナカツヒメ」と音が近くなります。
十六世孫の大倉岐命は景行天皇の皇子の大枝王でありました。その二代前の川上眞稚命、その次世代の丹波大矢田彦命はそれぞれ山代之大筒木真若王、迦迩米雷王と同一人物でしたので、大倉岐命(大枝王)と息長宿祢王もそれに対応する蓋然性が高いと言えます。
川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命)―丹波大矢田彦命(十五世孫: 朝庭別王)―丹波国造大倉岐命(十六世孫: 大枝王)
山代之大筒木真若王(十四世孫)―迦迩米雷王(十五世孫)―息長宿祢王(十六世孫)
息長宿祢王はその名から「息長」に宿って根付いたと想像でき、外部からその家に入っていると捉えられます。これは男系が変わった景行天皇とその子、大枝王と対応すると思われます。これが該当するならば、息長宿祢王の娘は神功皇后ですから、同一人物となる大枝王とその娘の大中比売命は少なくとも姉妹になります。
神功皇后こと息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)と大中比売命がどちらも仲哀天皇の配偶者であるのは「記紀」が主張するところです。何れにしてもこの系譜の本宗に位置する姫が、レガリアとなっているのは注目すべき事象です。
息長宿祢王(十六世孫)―息長帯日売命(十七世孫: 仲哀天皇の配偶者、神功皇后)大枝王(十六世孫) ―大中比売命(十七世孫: 仲哀天皇の配偶者)
さて、景行天皇側に敗れた丹波大矢田彦命と武内宿禰は稲葉国造の就任記事から同一人物と想定されました。
川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命)―丹波大矢田彦命(十五世孫: 朝庭別王)
屋主忍男武雄心命(十四世孫:初代:武内宿禰)―武内宿禰(十五世孫:二代:武内宿禰)
武内宿禰は代々世襲で襲名していると思われることから、神功皇后の審神者として描かれる武内宿禰は十七世孫に当たり四代目となります。
武内宿禰(十五世孫:二代)―武内宿禰(十六世孫:三代)―武内宿禰(十七世孫:四代)
丹波大矢田彦命(十五世孫: 朝庭別王)―武内宿禰(十六世孫: 三代)―武内宿禰(十七世孫: 四代)
『古事記』は武内宿禰の後裔氏族として羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)(波多八代宿祢『古事記』)を挙げます。「勘注系図」でも十五世孫の丹波大矢田彦命は「一云、矢代宿禰命」だと記します。一説には波多八代宿祢の「八代」は熊本県の「八代」に通じるといわれます。
八代市の最大の神社ともいう八代神社は別名を妙見宮といいます。神社由緒によれば、妙見神は亀と蛇が合体した想像上の動物「亀蛇(きだ)」の背に乗って海を渡ってきたと伝わります。
武内宿禰の開祖として挙がる比古布都押信命は亀に乗る人物として描かれる珍彦命と同一人物と思われますので、この伝説に通じます。波多八代宿祢の「八代」が肥国と通じる説も考慮の対象とするのは不自然ではないでしょう。
神功皇后に仕えたという武内宿禰は、九州での活躍が伝わります。息長帯日売命の世代から十七世孫の武内宿禰がこれに該当するのでしょうが、武内宿禰が戦った忍熊皇子は一代降る十八世孫になります。忍熊皇子と武内宿禰の戦いは武内宿禰が勝者となります。
この戦いは『日本書紀』では武内宿禰が軍を率いていますが、『古事記』では難波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)が将軍として描かれます。
また建振熊命は「息長帯日売命が崩御なさってしまった。こうなってはもう戦うこともない」と計略をしたと『古事記』は記します。この戦いは息長帯日売命世代より一世代降りますので、この発言はこの戦い時には神功皇后は本当に亡くなっていた暗示かもしれません。
「勘注系図」では忍熊皇子と同世代の十八世孫の本宗は丹波國造建振熊宿禰でした。ここの分注には「息長足姫皇后の新羅國征伐時に凱旋の功により海部直を賜る(著者大意)」と有ります。
十八世孫の丹波國造建振熊宿禰は系譜の男系が変わったことを示唆する稲種命でした。武内宿禰は丹波大矢田彦命の子孫であり、建振熊宿禰と同一人物と捉えると、勝者である武内宿禰(建振熊宿禰)が再び本宗に返り咲いていると思われます。「勘注系図」は十五世孫の丹波大矢田彦命の分注に、その三世孫(十八世孫)が丹波國造建振熊宿禰だと記すのはこれを伝えているのでしょう。
また「勘注系図」は景行天皇男系の十六世孫の丹波国造大倉岐命と十七世孫の丹波國造明國彦命の埋葬先は加佐郡と伝えますが、十八世孫の丹波國造建振熊宿禰は十五世孫の丹波大矢田彦命と同じ「熊野郡川上郷」に戻るのも、これを示していると思われます。
丹波大矢田彦命(十五世孫: 朝庭別王)―武内宿禰(十六世孫: 三代)―武内宿禰(十七世孫: 四代)―丹波國造建振熊宿禰(十八世孫: 稲種命)
仲哀天皇の妃の大中比売命は丹波國造建振熊宿禰の姨とも伝わり、また稲種命は明國彦命の子と伝わります。稲種命は男系交代の暗示ですから、これらを考慮すると、それが成り立つ明國彦命の娘を建振熊宿禰が嫁取りをしている構図を想定できます。
大枝王(十六世孫) ―大中比売命(十七世孫)
丹波國造明國彦命(十七世孫)―娘
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武内宿禰(十六世孫)―武内宿禰(十七世孫) ―丹波國造建振熊宿禰(十八世孫: 稲種命)
「勘注系図」の本宗は十五世孫で一度は移った男系が十八世孫の丹波國造建振熊宿禰で再び蘇っているようにみえます。確証は有りませんがこれが我が蘇ると書く、武内宿禰の後裔として挙がる蘇我氏の由来になるのかもしれません。