海部氏勘注系図の解説7 垂仁天皇の世代。景行天皇と播磨稲日大郎姫。


 『海部氏勘注系図』の十二世孫の建飯片隅命(たけいいかたすのみこと)が建甕槌神であり倭建命であることをみて来ました。この倭建命を祖とする一族に息長田別王(おきながたわけのみこ)がいます。『古事記』はこの王の系譜を載せ、それによると王の子は杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)、その娘が息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)となります。『古事記』はまた、この息長真若中比売は応神天皇の妃だとも記します。

倭建命(十二世孫: 建飯片隅命、建甕槌神)―息長田別王(十三世孫)―杙俣長日子王(十四世孫)―息長真若中比売(十五世孫、応神天皇妃)

 継体天皇の出自を記した書に『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』が引く『上宮記逸文(じょうぐうきいつぶん)』があり、そこにも息長真若中比売は応神天皇(凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ))の妃として挙げられます。

 凡牟都和希王(応神天皇)から継体天皇までは若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)、大郎子(おおいらつこ)、乎非王(おいのおおきみ/おいのみこ)、汙斯王(うしのみこ)、乎富等大公王(おおどのおおきみ)(継体天皇)と続きます。応神天皇妃の息長真若中比売は「勘注系図」の世代で十五世孫なので、これに合わせると継体天皇は二十世孫世代になります。

凡牟都和希王(十五世孫:応神天皇)―若野毛二俣王(十六世孫)―大郎子(一名意富富等王)(十七世孫)―乎非王(十八世孫)―汙斯王(彦主人王)(十九世孫)―乎富等大公王(継体天皇)(二十世孫)

 『上宮記逸文』には垂仁天皇を祖とする継体天皇の母の振媛(ふりひめ)へと続く七代に渡る系譜も記されております。垂仁天皇の和風諡号は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)といいますが、系譜はそれと同様と思われる伊久牟尼利比古大王から、その皇子磐衝別命へと続き、その後は下記になります。

伊久牟尼利比古大王(十二世孫)―伊波都久和希(十三世孫)―伊波智和希(十四世孫)―伊波己里和氣(十五世孫)―麻和加介(十六世孫)―阿加波智君(十七世孫)―乎波智君(十八世孫)―布利比彌命(十九世孫)

 継体天皇の母の振媛(布利比彌命)は汙斯王の配偶者ですので垂仁天皇は十二世孫になります。振り返れば十二世孫は開化天皇世代でしたので、垂仁天皇が同世代だと二人の天皇が並び、二朝並立していることになります。

建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命、珍彦)
垂仁天皇(十二世孫)    ―景行天皇(十三世孫)

 垂仁天皇とは新羅の国の王子、天日槍命の一族の投影であることは検討済みです。開化天皇は「孝」が接頭する天皇、それに続く物部氏の天皇が融合したのが開化天皇ですが、それとは別王朝の天日槍命系の垂仁天皇の王朝が、これと並行していたようです。

 開化天皇の皇居は春日率川宮(かすがのいざかわのみや)といい、奈良県奈良市本子守町周辺が伝承地となっております。これは奈良盆地の北部に当たり皇居の場所は先代以前からの北上といわれます。並行する垂仁天皇の宮が、纒向珠城宮であることを考慮すると北上の原因とは恐らくは、その地の占領であると思われます。

 この垂仁天皇と開化天皇が同世代は、考古学的遺物からも推定出来ます。一九六八年に埼玉県行田市の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)にある稲荷山古墳から出土した稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣(いなりやまこふんしゅつどきんさくめいてっけん)には、金象嵌(ぞうがん)の銘文で作刀者であるヲワケの臣へと続く八代の系譜が刻まれます。

オホヒコ―タカリスクネ―テヨカリワケ―タカヒシワケ―タサキワケ―ハテヒ―カサヒヨ―ヲワケ

 オホヒコを上祖とするヲワケの臣は、ワカタケル大王の時代に由緒を記したと銘文は語ります。ヲワケの臣が仕えたワカタケル大王は銘文に「辛亥の年七月中」とあることから、ワカタケル大王と音が通じる和風諡号の大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと) (漢風諡号、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう))とするのが定説です。またヲワケの上祖オホヒコは、孝元天皇の皇子の大彦命(おおひこのみこと)に比定する説が有力です。

 大彦命は孝元天皇の子となると次代の開化天皇世代に当たることになりますが、そこから七代後(合計八世代)が雄略天皇世代になります。「記紀」はこの世代を十代で繋いでいるので、間に二代分が追加されていると推測されます。二代分がどこに行くかと推定すると、先ほどの検討を合わせると垂仁天皇、景行天皇分が除かれ、開化天皇世代と並ぶとなります。

 ここまでは『海部氏勘注系図』を使わずに垂仁天皇の世代を推定しました。実は「勘注系図」でも、これを追認できます。

 垂仁天皇は十二世孫世代ですのでその次世代の景行天皇は十三世孫世代になります。この景行天皇の皇后は「記紀」によれば播磨稲日大郎姫(はりまのいなびおおいらつめ)といいますが、「勘注系図」でも景行天皇と同世代の十三世孫世代に「一云、針間之伊那比大郎女」と記し、その正しさを今に伝えています。また神武東征世代は十三世孫世代でしたが、「宇佐家古伝」ではこの神武天皇の兄は景行天皇との伝承もこれに付合します。

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  1. […]  『上宮記逸文』の凡牟都和希王(応神天皇)は十五世孫世代でした。八綱田命は誉津別命(ほむつわけのみこと)の親と戦っていることから、十四世孫世代となります。『新撰姓氏録』が伝える八綱田命は豊城入彦命の子の世代は「豊国に入った命」豊城入彦命こと稲背入彦命を基準点にするのが妥当となるのでしょう。 […]

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