今回も振返りからですが開化天皇朝と垂仁天皇朝が『海部氏勘注系図』の十二世孫世代で重なり二朝並立していました。開化天皇朝側は十三世孫の崇神天皇こと五十瓊敷入彦命は敗れ、十三世孫の日子坐王の子の丹波道主命こと川上眞稚命が跡を継いでいるようでした。
建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命、珍彦)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)
垂仁天皇(十二世孫)―景行天皇(十三世孫: 磐衝別命)―成務天皇(十四世孫: 五十日帯彦命、神櫛別命)
一方の「天日槍命の王朝」側は、垂仁、景行、成務天皇と続き、成務天皇は五十日帯彦命でした。「記紀」の皇統譜では開化、崇神、垂仁、景行、成務天皇と続きます。二朝並立と皇統譜を並べると下記になります。
【皇統譜】
開化(十二世孫)―崇神(十三世孫)―垂仁(十四世孫)―景行(十五世孫)
【二朝並立譜】
垂仁(十二世孫)―景行(十三世孫)―成務(十四世孫)―仲哀(十五世孫)
『日本書紀』が記すところでは、成務天皇の父は景行天皇、母は八坂入姫命(やさかいりひめ)といいます。成務天皇の父と「記紀」が主張する景行天皇には若帯日子命(わかたらしひこのみこと)、倭建命、五百木之入日子命(いおきのいりひこのみこと)(『日本書紀』五百城入彦皇子)の三人の太子がいたといい、この内の二人が八坂入姫命の御子と記されます。
『日本書紀』は景行天皇の皇后として播磨稲日大郎姫を挙げ、その子が日本武尊というので太子は一人でも良さそうですが、景行天皇より早世したことになっていますので代を引き継げません。これは先述の検討で、日本武尊の一人は十二世孫の建甕槌神こと建飯片隅命(たけいいかたすのみこと)でしたので、国史では早世とされたのでしょう。またこちらが日本武尊の双子の兄の大碓命(おおうすみこと)なのかもしれません。
播磨稲日大郎姫の子という日本武尊の他に、八坂入姫命の子の若帯日子命、五百木之入日子命の二人もまた太子といいます。結論から先に記すと若帯日子命の「帯」は天日槍命の末裔の暗号です。五百木之入日子命にはこの「帯」が内包されませんので、八坂入姫命の子という成務天皇には五百木之入日子命が該当しそうです。八坂入姫命の子には五百木之入日売命(いおきのいりひめ)がいる事からも八坂入姫命は、「帯」ではなく五百木と繋がりが深いと捉えられます。
崇神天皇(十三世孫)―八坂入彦命(十四世孫)―八坂入姫命(十五世孫)―五百城入彦皇子(十六世孫)
崇神天皇(十三世孫)―垂仁天皇(十四世孫)―景行天皇(十五世孫)―成務天皇(十六世孫)
上記の様に八坂入姫命は崇神天皇の皇子という八坂入彦命(やさかのいりひこ)がその父で「八坂」が二代に渡り続きます。八坂入姫命の子という五百城入彦皇子は十六世孫で【皇統譜】の成務天皇と揃います。「天日槍命の王朝」の十四、五世孫の垂仁、景行天皇は十二、三世孫に繰り上がりますがから、実際の五百城入彦皇子世代は成務天皇と同世代で十四世孫と想定されます。この二代分の不足を【皇統譜】に合わせるために挿入されているのが、「八坂」の二人、八坂入彦命、八坂入姫命となります。これを取り除き世代を復元すると五百城入彦皇子は十四世孫となります。
崇神天皇(十三世孫)―五百城入彦皇子(十四世孫)
「記紀」によれば五百城入彦皇子は母系では崇神天皇を祖とするといいますが、他文献からはそれは異なるとなります。『先代旧事本紀』「天孫本紀」には五百木之入日子命の妻として建稲種命の娘の尾綱真若刀婢命(おづなまわかとべのみこと)を挙げます。建稲種命(開化天皇)は十二世孫ですので、その娘の尾綱真若刀婢命は十三世孫に当たります。『古事記』でも同様に建伊那陀宿祢(たけいなだのすくね)の娘の志理都紀斗売(しりつきとめ)を妻として載せ、『海部氏勘注系図』でも十三世孫の志理都彦命の妹として載せます。
このことから配偶者の五百城入彦皇子は十三世孫となり、同世代の崇神天皇の子世代ではなくなります。ここまでの検討で五百城入彦皇子の父は景行天皇でもなく母は崇神天皇の娘でもないとなります。
建稲種命(十二世孫)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇)
志理都紀斗売(十三世孫:尾綱真若刀婢命)
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五百木之入日子命(十三世孫)―品陀真若王(十四世孫)
五百城入彦皇子に接頭する「五百城」は伊福部とも書きます。この伊福部(いおきべ / いふくべ / いふきべ)、(五百木部、廬城部、伊福吉部)と多様に表されます。
愛知県一宮市の伊富利部神社(いふりべじんじゃ)(木曽川町門間字北屋敷)の祭神は若都保命(わかつほのみこと)です。伊福部がその祖神として若都保命を奉斎したのがその起源だと伝えます。若都保命は『海部氏勘注系図』では、九世孫に若津保命と記されます。「勘注系図」では征討将軍の暗示の「建甕槌命」をこの命に「一云、建甕槌命」と記し付与します。今まで見て来ましたように九世孫は分裂と騒乱の時代でした。五百木部の祖の若都保命は征討将軍といえる初代の建甕槌命なのでしょう。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」では九世孫の玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこと)と若都保命の母は大伊賀姫(おおいがひめ)と伝え兄弟とされていることから、若都保命は玉勝山代根古命側の人物と思われます。
大伊賀姫(八世孫)―玉勝山代根古命(九世孫)―伊岐志饒穂命(十世孫)
若都保命(九世孫:五百木部、伊福部、建甕槌神)
「勘注系図」ではその後に系譜は伊岐志饒穂命に集約されることから、二人は同一人物か少なくても兄弟となりそうです。続く十二世孫の建飯片隅命が若都保命と同様に建甕槌命を付与され、また建飯片隅命の分注には「建倉五百木命」と記されるのことから、「五百城」の一族は建飯片隅命、日子坐王、川上眞稚命(丹波道主命)と続く一族がそれと想定されます。
【五百木の系譜】
玉勝山代根古命、若津保命(九世孫:五百木部、伊福部、建甕槌神)―伊岐志饒穂命(十世孫)―阿多根命(十一世孫)―飯片隅命(十二世孫:建甕槌命、建倉五百木命)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)
先ほど見て来ましたが、五百木之入日子命は崇神天皇の子ではなく、その妹の配偶者でしたので十三世孫でした。検討の系譜に合わせると、十三世孫は日子坐王が該当します。日子坐王は天皇として振舞っていましたが、同世代の五百木之入日子命が景行天皇の太子の一人として描かれたのは、「天日槍命の王朝」側ではない天皇家の太子としてと思われます。
この景行天皇の太子の一人という五百木之入日子命の子には、応神天皇に娘を妃として三人も入れたと言う品陀真若王(ほんだまわかのみこ)がいます。外戚として権勢を誇っていてもおかしくは無い、この人物を祭る神社は、ほぼ皆無です。この事からも、どうやら品陀真若王とは他の人物の投影のようです。先ほど復元した【五百木の系譜】をみると品陀真若王と同世代の十四世孫には、同じ「真若王(まわかのみこ)」こと川上眞稚命がいるのに気づきます。これは偶然ではなく同一人物となるのでしょう。
五百木之入日子命(十三世孫)―品陀真若王(十四世孫)―応神天皇妃(十五世孫)
日子坐王(十三世孫) ―川上眞稚命(十四世孫)―応神天皇妃(十五世孫)
崇神天皇(十三世孫) ―垂仁天皇(十四世孫) ―景行天皇(十五世孫)
川上眞稚命は丹波道主命であるのは検討済みです。品陀真若王の三人の娘は応神天皇妃でしたが、丹波道主命の娘も同様に応神天皇妃であり、景行天皇妃であるのも見て来ました。
丹波道主命の本貫地の丹後国熊野郡の久美浜には品田(ほんで)(京丹後市久美浜町品田)の地名が今も残ります。川上眞稚命と品陀真若王(川上眞稚命)は同一人物ですので、その相関性は疑いようがないでしょう。
応神天皇といえば「記紀」では品陀和気命(ほむだわけのみこと)ですが、品田別命とも表記します。これを意訳すれば「品陀」の命から別れた人物となります。品陀真若王の娘を娶った人物がその名「品陀」を受継いだと想像するのは突飛な考えではないと思われます。
品陀真若王(十四世孫) ―応神天皇妃(十五世孫:品陀の姫、迦具夜比売命)
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垂仁天皇(十四世孫) ―品陀和気命(十五世孫:応神天皇、景行天皇)