「宮中」で祭られた天照大神と倭大国魂大神。「桜神」の瀬織津姫命。瀬織津姫命秘抄二。


1・宮中で祭られていた天照大神と倭大国魂大神

 『日本書紀』によれば崇神天皇五年に疫病が流行り、翌六年には天皇の大殿で並祭されていた天照大神と、倭大国魂(やまとおおくにたま)の二神が、天照大神には豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を、倭大国魂大神には渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)をそれぞれ付けて、そこから出されたといいます。

 天照大神は伊勢神宮の内宮で、倭大国魂大神は、大和神社(おおやまとじんじゃ)で祭られている神です。先述しましたが、天照大神は『三輪大明神縁起』では下界にはまず、大和国の三輪山へ降臨したということから、大神神社の神だとも分かります。
 伊勢神宮へのご鎮座はこの後、垂仁天皇の時代に豊鍬入姫命から受継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢国の五十鈴川の辺りに斎宮を建てたのを起源とするといいます。これは一説には垂仁天皇二十六年の事と『日本書紀』にあり、この時「天照大神がはじめて天より降られたところである」と不思議な文言をも記します。
 「はじめて天より降られたところ」が、伊勢国であったのなら、宮中は地上ではないのかと言う疑問は置きまして、大神神社の文献や話の流れを取るのなら、どちらの天照大神も同一神だとしたら、崇神天皇即位以前より宮中で奉斎されていたことになります。

 天照大神は、大神神社の文献、例えば『大三輪社勘文』では孝昭天皇元年に三輪山に降臨したとみえます。大神神社の神は大己貴神(おおなむちのかみ)の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)という、大物主神(おおものぬしのかみ)ですので、これが最初に降臨したという天照大神になります。
 『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこかんよごと)には、大穴持命の和魂を「八咫鏡に取り託けて」とありますが、八咫鏡といえば、伊勢内宮の神宝であるのは周知のことです。
 幸魂奇魂とは、和魂ですがこれと対となるのが荒御魂です。大神神社の神は大己貴神の幸魂奇魂ですが、荒御魂は大和神社の倭大国魂大神となります。言い換えればこれは、天照大神の和魂、荒御魂となります。倭大国魂大神こと大己貴神の荒御魂も、孝昭天皇元年に天皇の大殿に祭られたのをその起源とします。

 著者の見解では、孝昭天皇が初代天皇となりますが、ここから見えるのはどちらも初代天皇の元年より宮中で祭られていたとなります。

2・倭大国魂大神と「水神」

 天照大神は崇神天皇の時代に豊鍬入姫命、垂仁天皇時代にそれを受継いだ倭姫命が奉斎しました。倭大国魂大神はまずは渟名城入姫命に付けて宮中より出ましたが、「髪がぬけ落ち、身体が痩せ細って大国魂神をお祭りすることができなかった」といいます(『日本書紀』崇神天皇紀)。
 その後、垂仁天皇紀では、渟名城稚姫命(ぬなきのわかひめのみこと)に命じ、神地を穴磯邑(奈良県桜井市穴師)に定めて、大市(おおち)の長岡岬(ながおかのさき)でお祠りしたとあります。この大市の長岡岬は、かつての大和国城上郡大市郷で、これは現在の奈良県桜井市芝付近といわれています。その後、渟名城稚姫命は「すっかりお身体がお痩せになり、お弱りにな」り、お祭りすることができなくなったため、大倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市宿禰(ながおちのすくね)がそれを引継いだといいます。

 この倭大国魂大神が祭られた、大市の長岡岬には幾つかの説があります。大市は「和名抄」では「於保以知」と訓ぜられ、『大和志』ではこれを現在の桜井市大字箸中に比定しています(1)。箸中は倭迹々日百襲姫の陵墓ともいう、箸墓古墳があり、崇神紀には「即ち箸に陰を撞きて薨りましぬ乃ち大市に葬りまつる」と記される地です。
 平安時代末期に大倭神社祝部(はふりべ)の大倭直歳繁が、国司宛てに提出した『大倭神社注進状』(おおやまとじんじゃちゅうしんじょう)では、狭井神社の地が、それに該当するとあります。これは現在の大神神社の摂社に当たることから、大和神社の見解や『大三輪町史』では、大市とは穴磯から大神神社辺りを含んだ大きな地ではなかったかと推測しています(2)。

 『大倭神社注進状』が、大市の長岡岬に当てた狭井神社の「狭井」とは大神神社では、下記と説明しています。

 「神聖な」を意味する「さ」と井戸の「井」が結合した言葉で、聖なる水の湧き出ずる所という意味を持つ(3)。

 これは井戸の神ですから、大己貴神の荒御魂である倭大国魂大神は「水神」となります。また、水神で有名な丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は大和神社の別宮といいます(『大倭神社注進状』)。

 丹生川上神社は、三社ありそれぞれ、上社で高龗神(たかおかみのかみ)、中社で罔象女神(みづはのめのかみ)、下社で闇龗神(くらおかみのかみ)と、いずれも水神を祭ります。『大和志料』では、古老の伝説としながらも、大和神社の摂社で、本殿側の境内地に鎮座する高龗神社が丹生川上神社の本宮だと伝えます。高龗神社、丹生川上神社では祈雨(雨乞い)と止雨を司る、雨師(うし)の神を祭ります。

 現在の大和神社は平野部に鎮座しますが、元の鎮座地の長岡岬の候補地は複数あり、大和神社の神宮寺であった長岳寺(ちょうがくじ)の東北の高槻山も、その一つとなります。高槻山は龍王山の西の尾根であり、龍王山はその名の通り、雨の使いである「龍王」に因みます。
 龍王山では河川水系ごとに龍王神を祭り、かつて住人は雨乞いの時には、龍王山に向かって祈念をし、念願が叶った時には喜びを表す「しでおどり」を行いました。石上神宮、大和神社では今でも「白しで」、「紅しでおどり」が残っています(4)。また、龍王山には神宮寺であった長岳寺の奥の院があり、そこには不動明王像が安置されます。

 このように倭大国魂大神を始め、大和神社の神々は、水神と縁が深いものになります。

3・天照大神と瀬織津姫命の祭祀

 『大倭神社注進状』が、大市の長岡岬に当てた狭井神社は、「延喜式内社」で、狭井坐大神荒御魂神社(さいにますおおみわあらみたまじんじゃ)といい、かつて大和神社の別社でした。現在は大神神社の摂社ですが、これは明治十年以降のこととなります。

 狭井神社は俗に花鎮社(けちんしゃ)、または「しづめの宮」と呼ばれ、それは現在四月に行われる鎮花祭(はなしずめのまつり)を由来とします。この鎮花祭の起因は『大三輪町史』によると下記になります。

 崇神天皇の御代、疫病流行したので、御祭神大物主神の御告により、その神大直禰子命をして祭らせ給うたに始まると伝えらる(『年中行事特殊祭儀概説』)。

 この疫病の流行は崇神天皇五年に起こり、その翌年に天皇の大殿で並祭されていた天照大神と、倭大国魂大神の二神が宮中より出たのは先述しました。その後、疫病は大物主神の祭祀方法が原因と分かり、それぞれを祭る神主に、大物主神には茅渟県陶邑(ちぬのあがたのすえむら)の大田田根子命(おおたたねこのみこと)を、倭大国魂神には長尾市命(ながおちのみこと)を当てたところ、それが収まったといいます『日本書紀』。大物主神と倭大国魂神は大己貴神の幸魂奇魂、荒御魂なので同じ神を鎮めたことになります。これは天照大神への鎮祭と言い換えられます。

 鎮花祭は平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に

 謂大神狭井二祭也、在春花飛散之時、疫神分散而行癘、為其鎖遏、必有此祭、故曰鎮花

春の花びらが散る時に疫神が分散して流行病を起こすために、これを鎮めるため大神神社と狭井神社で行う祭りで、これは必ず行わなければならない(著者大意)。

と記されます。『令義解』は、国家が定めた律令の注釈書ですから、この祭儀が国家祭祀であったことになります。
 疫病の原因は、春の花が散ると疫病が流行るので、その鎮魂のために行う祭が鎮花祭となります。また、令集解(りょうのしゅうげ)の釈には

花散之時、神共散而行疫已

花が散ると、神が共に散り疫病が流行る(著者大意)

とあり、春の花が散ると、神も共に散るといいます。要するに鎮花祭は、その「花の神を鎮める」ための祭りですが、春に咲き、春に散る代表的な花といえば、想像に難くありません。鎮花祭の祝詞にはそれは「桜」とあり、鎮めるべき「花の神」とは「桜の神」と分かります(5)。

 再三ですが三輪の神とは、天照大神です。この「桜」と天照大神の関係について興味深い指摘をしているのが、菊池展明氏です(6)。

 藤堂元甫『三国地志』(宝暦時代の伊勢地方の地誌)に「宇治郷宇治二坐ス天照皇太神宮」は「又五十鈴宮朝日宮伊勢宮桜宮トモ云」とあるように、江戸期まで、神宮 (天照皇太神宮)の異称には「桜宮」の名があった(菊池展明『円空と瀬織津姫 下』)。

 天照大神を奉斎する伊勢神宮は、かつて「桜宮」とも呼ばれていたといいます。つまり、「桜」で表しているのは神とは、天照大神の御魂であり、祭りはそれへの鎮魂なのでしょう。
 狭井神社は花鎮社と言うことからも、鎮花祭は主に大己貴神の荒御魂で、水神である倭大国魂大神の鎮魂になります。これは換言すれば天照大神の荒御魂となりますが、その異称が瀬織津姫命です。
 「神道五部書」(しんとうごぶしょ)の一つである『倭姫命世記』(やまとひめのみことせいき)では、伊勢神宮内宮の荒祭宮の祭神は「一名、瀬織津比咩神」とあります。この瀬織津姫命は大祓詞(おおはらえのことば)にあがり、水の女神となります。国家で祭祀を定め、その鎮魂に務めた「桜神」とは、この女神となるのでしょう。

 孝昭天皇の宮中で祭祀が初まり、崇神天皇の時代まで祭られていた天照大神と、倭大国魂大神は、同一神の和魂(幸魂奇魂)と荒御魂でした。
 天照大神は言うまでもなく火神(日神)であり、その荒御魂は水神であります。二坐を奉斎する多くの神社の祭神が、夫婦神であることを考えれば、宮中で祭られていた二神も、男神としての天照大神と、その后としての女神の一対と考えるのは、飛躍しているとはいえないでしょう。(20240628)

(1)『日本歴史地名大系』

(2)「大和神社について(川畑 信雄)」(http://ooyamatohp.net/yurai.html)

(3)「薬井戸(くすりいど)」(http://mobile.oomiwa.or.jp/kusuriido.html)

(4)「雨の神:龍王山とおどり」(https://kanko-tenri.jp/oldstory/amenokami/)

(5)雜祭式講義録 平岡好文 愛知国学院同窓会 大正14年 136項

(6)「桜宮の神は瀬織津比咩神」(http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-578.html?sp)

瀬織津姫命秘抄、記事一覧


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