開化天皇朝と垂仁天皇朝が『海部氏勘注系図』の十二世孫世代で重なり二朝並立していましたが、開化天皇朝側は十三世孫の崇神天皇こと五十瓊敷入彦命で敗れ、十三世孫の日子坐王の子の丹波道主命こと川上眞稚命が跡を継いでいるようでした。
建稲種命(十二世孫:開化天皇)―志理都彦命(十三世孫:崇神天皇=五十瓊敷入彦命、珍彦)
建飯片隅命(十二世孫: 建飯賀田須命、倭建命、建甕槌神)―日子坐王(十三世孫: 大田田命、大田々根子命)―川上眞稚命(十四世孫: 丹波道主命、五十瓊敷入彦命之御子)
垂仁天皇(十二世孫)―景行天皇(十三世孫: 磐衝別命)―成務天皇(十四世孫: 五十日帯彦命、神櫛別命)
一方の「天日槍命の王朝」側は、垂仁、景行、成務天皇と続きこれは五十日帯彦命でした。「記紀」の皇統譜では開化、崇神、垂仁、景行、成務天皇と続きます。二朝並立と皇統譜を並べると下記になります。








“海部氏勘注系図の解説10 応神天皇の世代。息長真若中比売と二人のカグロヒメ。” への4件のフィードバック
[…] 川上眞稚命は丹波道主命であるのは検討済みです。品陀真若王の三人の娘は応神天皇妃でしたが、丹波道主命の娘も同様に応神天皇妃であり、景行天皇妃であるのも見て来ました。 丹波道主命の本貫地の丹後国熊野郡の久美浜には品田(ほんで)(京丹後市久美浜町品田)の地名が今も残ります。川上眞稚命と品陀真若王(川上眞稚命)は同一人物ですので、その相関性は疑いようがないでしょう。 […]
[…] […]
初めて拝読しました。
同世代でも、父親が18才で作った子と38才で作った子は、親子ほど違います。
従兄弟、又従兄弟と関係が遠くなるほど、年齢差が大きくなる。
アマ氏の世代だけで捉えるのは無理があるのでは?
その点は、どう修正していらっしゃるのでしょうか?
コメントありがとうございます。
海部家の系図だけではなく、一、二代ではなく世代を慣らすと、家系図が同じ代数で揃います。
大家を継ぐとなると、程度の規則性が生まれるようです。慣らすと二十数年で一世代となります。
由緒のある家では、世代交代はある程度、規則を持って整って行われたのかもしれませんね。